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雛の生きる道(前編)


 アリスは良く晴れた日に妖怪の山へ立ち入り、爆薬の材料になる硫黄を採集した。そうして下山しようとしたその帰路にて、黄や紅に色づいた木々に囲まれてひっそりと佇む厄神を目撃した。アリスは最初、人間の風習に倣って見て見ぬふりをしようとした。だが厄神の横を通り過ぎようとしたとき、暗然たる山の中で厄神がぽつりと残される光景が頭を過(よぎ)った。アリスは思わず厄神の方を振り向いてしまった。厄神と完全に目が合った。アリスはもはやこれまでと思い、心に勢いをつけて厄神に話しかけた。
「こんにちは。そこで何をしているの?」
 厄神はにっこりと微笑んで答えた。
「日光浴をしているのよ」
「木の影で?」
「私には丁度いいところよ」
 厄神はたいそうゆったりした様子で、木の葉の間に見える空を眺めた。アリスは決心した。
「ねえ貴方。暇だったら私の家に来ない?」
 厄神はぬらりとアリスを見た。瞳の輝きが少し薄れていた。
「どうして? 遠慮するわ」
「お茶の相手が欲しいのよ。いいからいいから」
 アリスは躊躇する厄神の手を取り、半ば無理やりに引っ張っていった。

「おいしいわ。こんなの初めて」
 アリスと厄神は、薄い黄土色の円いテーブルに正対して座った。厄神がとても大事そうに紅茶を啜るのを、アリスは両肘をついて眺めていた。
「貴方はいつも一人なの?」
「そうよ。誰も近寄らないから」
 厄神は実に淡々とした口調だった。アリスは、目の前で姿勢よく座る厄神と、部屋の隅の棚に乗っている上海人形を見比べた。
「だったらさ」
 アリスは身を乗り出した。
「ここに住まない?」
 カップを口に運ぼうとする厄神の手が止まった。先ほどまで柔和だった厄神は急に真顔になって、冷ややかな視線でアリスを見た。
「いったい何の真似かしら」
「ただ放っておきたくないだけよ。悪い?」
 アリスは厄神の目をじっと見た。暫く涼しげな睨み合いが続いた。そして、とうとう厄神が目線を逸らした。
「別にいいけど。どうなっても知らないわよ」
 厄神は斜め下に目線を落としてぼやいた。アリスは、替えの紅茶を持ってきてあげることにした。


 厄神は名を雛と言った。アリスと雛は寝食を共にするようになった。
 朝食を一緒に摂り、日中はそれぞれがバラバラに出かけた。夜になると帰ってきて、アリスの人形たちも交えてご飯を食べた。寝るときは別々の部屋で寝て、また朝になると同じテーブルに向かい合った。
 初めての夕食では、テーブルに寄ってきた人形たちを見て雛がこんなことを言った。
「私をこの仲間に加えたいのかしら」
 アリスは「そんなわけないでしょ」と笑顔で一蹴しつつ、人形たちを食卓に並べた。

「無い!」
 雛との生活を始めて数日が経った朝、アリスが自室を忙しなく見回し声を上げた。
「昨日撚(よ)った操り糸が無いわ」
 棚の上や箪笥の中を掻き回したが見つからず、観念したアリスはとぼとぼと部屋を出た。扉を開けると、廊下の正面に雛がじっと立っていた。雛はアリスに気づくと慌てて顔を上げ、「おはよう」と笑顔を見せた。アリスはあっ、と思ってぎこちなく取り繕った。
「どうしたの? あ、変な声を出したから起こしちゃった?
 大丈夫、何も心配いらないわ」
 アリスはポンポンと雛の背中を叩き、居間へと促した。

 それからもアリスは、物を失くしたり、妖怪に絡まれたり、目玉焼きに卵の殻が入っていたり、友人を訪ねても会えなかったり、と散々な目に遭った。明らかに厄が憑いていた。アリスは何度も、いっそのこと雛を追い出してしまおうかと考えた。けれどもその度に雛の姿をアリスの人形たちと重ね合わせてしまい、傍に置かずにはいられない気持ちになってしまうのであった。


 ある時、アリスが昼間に森を歩いていると、木々の奥に黒い魔法使いを見かけた。その魔法使いと出会うのは久しぶりだった。
「魔理沙」
 アリスは逸(はや)る気持ちを抑え、大きな帽子を被る背中に軽く声をかけてゆっくりと近寄った。だが魔理沙は、アリスに気づくや否や後ずさりして距離を取ろうとした。アリスは何事かとおもしろくなって、さらに距離を詰めた。魔理沙は、アリスが近づく度に神妙な面持ちで後ろへ下がった。二人の間隔は一向に縮まらない。そのとき、後退を続ける魔理沙が木の幹に背中をぶつけた。
「もう逃げられないわよ」
 アリスは獣みたいに両手を広げてみせて、ひたひたと魔理沙に迫ろうとした。
「近寄るな!」
 その瞬間、語気を強めた魔理沙の声が周囲に響いた。魔理沙は息を荒げつつアリスを鋭く睨み、八卦路を正面に構えた。アリスは、魔理沙が急に遠くなったように感じた。
「それ以上近づかないでくれ!」
 魔理沙がもう片方の手で「待て」と合図する。ひどい脱力感に襲われたアリスは、言われるがままその場に立ち止まった。魔理沙はアリスの静止を確かめて、ようやく冷静な素振りを見せた。
「悪気があってのことじゃないんだ。ごめん」
 魔理沙はぎゅっと瞬きして、帽子を整え、背中の木を避けて何歩か後退してから、アリスに背を向けて飛び去った。アリスは薄暗い森の中に取り残された。

 それからアリスは何をするわけでもなく森の中をぶらつき、夕暮れになると家路を辿った。そうして見慣れた我が家に到着すると、腐葉土みたいな色をした木製の扉に手をかけ、静かに扉を開けた。
「おかえりなさい」
 玄関で、柔らかな微笑みを携えた雛がとろんとした目つきで出迎えた。とても幸せそうな表情だった。それが堪らなくアリスの心を湧き上がらせた。アリスは感情の赴くまま、左手で雛の胸倉をぐいと掴んだ。
「どうして貴方は厄神なのよ!」
 アリスはぽかんとする雛の顔に怒声を浴びせ、空いた右手で雛の頬を叩いた。乾いた音と共に雛の首が右に回った。アリスは息を切らしながら、雛を握っていた左手を緩めた。雛は力無く膝を曲げ、音を立てて床に倒れた。
 うつ伏せになった雛は何も言ってこない。それを見て、アリスの熱は急速に冷めていった。
「雛?」
 雛の耳元に顔を寄せて呼びかけ、片手で雛の体を揺すった。雛の目は固く閉じたままで、少しも反応を見せなかった。
「ちょっと、え、嘘でしょう」
 雛はまるで魂が抜けたかのようであった。何か取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと、アリスの心はだんだんとざわめき始めた。私が雛を呼んだのに、それなのになんてことを。
 それでも自分がうろたえてはいけないと念じたアリスは、呼吸を意識して感情を押し殺し、人形たちを使役して雛を運び出した。

 雛を抱える人形たちを連れて、アリスは夜闇を駆け抜けた。竹林の入り口に着くと付近にいたモンペの少女を必死の形相で捕まえ、目的地へ案内してもらった。
 竹林の奥にひっそりと建つ純和風の邸宅は、月明かりに照らされてアリスたちを待ち構えていた。玄関で見張りをしていた兎に促され、アリスは瓦葺きの門をくぐり、正面玄関の大きな戸を引いた。玄関の床は大小さまざまな石が敷き詰められていて、兎の十人や二十人は寝転がれそうなほどの広さをこさえていた。辺りはしんと静まり返っていた。アリスは意識せずとも音を立てないように靴を脱ぎ、木目が目立つ靴箱へそうっと置いた。
 どこまでも続く廊下を手前で右に曲がり、“医務室”と札が掛けられた部屋を覗いた。部屋の右側には純白の寝台が備え付けられていた。左側には木材でできた机があり、赤青が対になった上下を纏う女性が机に向かって座っていた。女性はアリスの方を振り向き近寄った。赤と青の補色でアリスは目がチカチカした。
「こんばんは永琳、貴方に診てもらいたい人がいます」
 アリスはそう言いながら部屋の中へ踏み込んだ。と同時に、廊下に控えていた金髪の人形たちが賑やかに雛を運び込んだ。雛は未だ、頬を白く染めて目を閉じていた。永琳と呼ばれた女性は雛を寝台に乗せるよう勧め、横たわった雛を注意深く診察した。
「体に異常は無さそうだけれど。
 この子厄神よね。あなたとはどんな関係?」
 永琳は脈拍を測りながらアリスを見た。アリスはさらりと答えた。
「一緒に住んでいました」
 それを聞いた永琳は「ふうん」とだけ返し、再び患者に顔を戻した。
 それからひと通りの診察を終えた永琳は、立ったまま雛をじっと見つめていたアリスに対し、患者用の椅子に座るように言った。アリスと永琳は互いに向かい合う格好になった。
「率直に言わせてもらうわ」
「はやく言ってちょうだい」
 アリスは勿体ぶる永琳を急き立てた。
「厄神はね、人間の厄を自身の糧にしているの。言い換えると、幸福な環境では彼女の存在が破綻してしまうわ」
 さらりとした口調だったが、永琳の目はアリスをじっと捉えていた。アリスは永琳の言葉を反芻し、理解が深まるにつれて頭の裏側が冷えていくのを感じた。
「それってつまり、この子と一緒に暮らすのはやめろって言いたいの?」
 永琳はその質問に直接答えず、代わりに冷淡な声で問い返した。
「体そのものに異常は無いわ。
 だから決めなさい。家に連れて帰るのか、ここに置いて帰るのか」
 アリスは堪らず永琳から目を逸らし、雛の方を見た。雛は、一見すると安らかな表情で眠っているようだった。けれども自分が近づくことでその生命を壊してしまう。かといって、放って帰れば雛は山で永遠にひとりぼっち。
 共存できる道はないかと、アリスは深く深く考え込んだ。しかし、いくら頭を捻っても良い方策が浮かばない。アリスは瞳を揺らしてもう一度雛を見た。雛は、変わらず穏やかな様子で目を閉じていた。アリスは雛の手を取ろうと右腕を伸ばした。だが寸前でその腕を引っ込め、粛然と立ち上がり永琳を見た。
「無事に、雛を帰してやってください」
 アリスははっきりとした声色でそう告げ、永琳が頷くのを確かめてから、傍に侍っていた人形たちを引き連れて部屋を出た。

  つづく


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