雛の生きる道(後編)
※『雛の生きる道(前編)』の続きです。 -------- 翌日、アリスは重い体を引きずって博麗神社を訪れた。昨日の邸宅を見た後だから、建物の端々にある細かな傷が目に付いた。 「わっ、厄の塊」 巫女の霊夢はアリスを見るなり身を引いた。だがそれ以上は距離を取らず、平然とアリスに近づいた。 「お祓いを受けに来たのよ」 アリスは、予想通りだった霊夢の反応に呆れた表情を作った。けれども心の中では不思議な安心感を覚え、つい顔が綻んだ。 アリスは境内の一角に跪いた。その正面に、祓い棒を両手で構えた霊夢が寄ってきた。霊夢はウンと一度咳払いをして、 「ではお祓いを始めます」 と如何にも仰々しい様子で棒を持ち直した。そうして一呼吸空けてから、霊夢は棒をふわりと一振りした。 「はい終わり」 それだけで霊夢はあっさりと棒を下ろした。アリスは目を点にして霊夢を見た。 「即効性は無いけれど今日中にはすっかり治るわ。 何か副作用が出たらまた来てちょうだい」 アリスが「え、ちょっと何これ」と呼び止めるのをよそに、霊夢はさっさと祓い棒を片付けに行ってしまった。それから霊夢はすぐに戻ってきて、跪いたままのアリスに片手を差し出した。 「さ、奉納してもらおうかしら」 アリスは霊夢の顔と手を交互に見て、渋々ながらお金の入った袋を霊夢の手に乗せた。その瞬間、霊夢の目の奥がきらりと輝いた。アリスはなんだかおもしろくなくなって、灰色の袋を握りしめる霊夢にひと言加えた。 「それドングリよ」 「え!」 霊夢は脊髄反射で袋の中を見た。 「バカ」 お祓いが終わった後も、アリスはもう少し霊夢の傍にいたいと思い、霊夢のお茶に付き合うことにした。 「お茶の代金は頂くわよ」 「さっきのお金で十分でしょう?」 アリスは縁側で霊夢の横に並び、ぼんやりと雲の行方を眺めた。そうしていると雛のことが自然と頭に浮かび、このことを霊夢に相談をしたくて堪らなくなってきた。霊夢の顔を見た。霊夢はお茶を啜りながら遠くの紅葉を見ていた。アリスは喉まで出かかった言葉にどぎまぎしていたが、意を決して霊夢に口を割った。 「霊夢。不幸に居ながら幸せになる方法ってあると思う?」 霊夢は「へえ?」と声を上げ、訝しげにアリスを見た。アリスはちょっと恥ずかしくなって目線を逸らしたが、改めて霊夢と目を合わせた。 「そうねえ。 幸福とか不幸とかって当人の主観でしょ? 私にはわからないわ」 霊夢は淡々と感想を述べた後、湯呑みを持って再び遠くへ目を遣った。アリスは、「わからない」と言った霊夢の言葉に何か惹かれるものを感じた。 落ち葉が積もり、その上に雪が積もり、積もったものが融けようとする時期になった。 アリスは朝方の寒さを凌ぐために暖炉に火を灯し、安楽椅子に座って人形たちの修繕に取り掛かった。そのとき、コンコンコンと玄関の扉を叩く音が部屋に届いた。 朝から一体誰だろう。またあのバカ魔法使いが面倒事を持ってきたのだろうか。 そんなことをぐるぐる考えながら、アリスは内開きの扉を開けた。雪が積もった玄関先には、深紅のドレスを身に纏う緑髪の少女が口を結んで佇んでいた。アリスは、その懐かしい外見に呆然と立ち尽くした。 「ひな?」 アリスは震えた声で少女に呼び掛けた。少女はじっとアリスの顔を見つめた。アリスは一度鼻を啜ってから、無心で雛を抱き締めた。雛もアリスにぴたりと寄り添った。 アリスは目元を拭ってから、雛を居間へ案内した。円いテーブルに雛が腰かける様子を見て、在りし日の光景を想起した。 「貴方、死にに来たのかしら?」 雛との再会に心が浮揚したアリスは思わず悪態をついてしまった。目線を落とす雛に気づいて、慌てて「他意は無いわ」と付け加えた。 「アリス、昨日は何があったか覚えている?」 落ち着いた調子の問いかけに、アリスは壁に掛けられている暦をちらりと見た。 「雛祭りだったかしら」 「そう。厄を抱えた雛人形が川へ流される日」 アリスはいまいち雛の真意が掴めず、無言で続きを促した。 「この日は私も山の神社で厄を祓ってもらうの。だから今の私には殆ど厄が無いわ」 魔力の目を通して雛を観察すると、確かにどす黒いもやもやが全く見当たらなかった。 「で、私の住処には雛流しで集めた人形たちがいるんだけど、まだその子たちの厄を吸い取っていない」 そこまで言って、雛は「わかるかしら」と言わんばかりにアリスを見据えた。 「悪いけれど、はっきり言ってちょうだい」 雛は大きく息を吸った。アリスも息を呑んだ。 「今の私は、今だけは、幸も不幸も全てこの心と体に受け容れられるわ。そのために今日を奉げに来たの」 雛は言いたいことを伝えきったようで、にっこりと微笑んだ。アリスは心の底で全てを諒解して、心臓の鼓動を感じつつ雛にささやかな笑顔を返した。 まだ何も食べていなかった二人は、とりあえず朝食を摂ることにした。アリスと雛がテーブルで他愛のない話をしている間、台所からは人形たちが何かを刻む小気味の良い音が聞こえた。 暫くすると、人形たちによって数枚の皿が二人の前に並べられた。大きな皿には二つのコッペパンが乗っていて、その脇には目玉焼きが添えられていた。もう一つの小皿には、人形たちが丹精込めて作った黄緑色のサラダがこんもりしていた。 「さ、いただきましょうか」 「いただきます」 アリスと雛は同時に手を合わせ、窓から漏れる陽の光を浴びながらパンなどを頬張った。どれもすんなりと喉を通った。 皿の片付けを終えた二人は、何をするわけでもなくまったりと向かい合った。雛は部屋の周囲を見回して声を洩らした。 「改めて見ると、本当に人形がいっぱい。こんなに作ってどうするのかしら」 アリスはその言葉が可笑しくて、くすくす笑いながら答えた。 「あなたが厄を集めているのと同じよ」 雛は何やら納得した風の反応を見せて、再び部屋を眺めた。 「ねえ」 アリスは、放っておくと際限無く部屋を見ていそうな雛を振り向かせた。 「せっかくだから外へ出かけない?」 雛は迷わず「ええそうね」と頷いた。 雛の希望で、二人は人里に足を踏み入れた。アリスは雛が煙たがられるのではないかと不安に思ったが、意外にも人々の反応が好意的だったのに感嘆した。 「驚いた。てっきり追い出されるものだと思ったのに」 「ここのみんなは事情が判っているのよ」 「へえ」 堂々と道を歩く雛の横顔を見た。雛はアリスの目線に気付き、言葉を加えた。 「水を掛けられるか、もしくは私が自発的に回転しなければ厄は集まらないわ」 花屋を覗いたり、カフェに立ち寄って珈琲を飲んでみたり、蕎麦屋でざる蕎麦を啜ったり、道端で出会った知り合いを交えて話をしてみたり、あちこち周っているうちに陽が傾き始めた。アリスはもう少し、できればずっとこうしていたいと思った。夕日に照らされた雛を見ると、自然と目が合った。アリスは笑顔を浮かべ、 「じゃ、帰りましょうか」 と言って人里を出ることにした。 薄暗い森の中を辿り、二人はアリスの家へ到着した。扉を開けると、外よりもなお暗い廊下が奥まで続いていた。アリスは正面に手を翳した。すると、蝋燭やランプが一斉に火を灯した。 「懐かしいわ」 横にいた雛が呟いた。 人里の喧騒と比べ、家の中はとても静まり返っていた。二人は暖炉の前の安楽椅子に腰を下ろした。 アリスは人形の一人を手元に寄せ、傷や汚れの点検を始めた。すると、雛が興味深そうにそれを見た。 「その人形、触ってもいいかしら」 アリスは腕を伸ばして人形を手渡した。雛はそれを片手で柔らかく抱え、もう片方の手を使って指先で頭や髪を優しく撫でた。 「あれ、人形に触れたのは初めてだったかしら」 「ええ。今でなければ、厄が移ってしまうと躊躇したでしょうね」 そう言いながら目を細めて人形を眺める雛は、どこからどう見ても普通の少女だった。 互いに入浴を終え、二人はアリスの部屋で寝台の縁に腰かけた。 「私もここで寝たら狭くなると思うんだけど」 雛は首を傾げてアリスを見た。けれどもアリスは、雛が何の返事も求めていないように感じた。 「ええ。じゃあそろそろ寝ましょうか」 二人はするりと布団に潜り込み、アリスが手を上に翳して部屋の明かりを消し、部屋は一層の静寂に包まれた。窓から零れる月明かりだけが、部屋の一角を薄く照らした。 「雛」 アリスは天井の木目を見上げながら雛に問いかけた。 「楽しかったかしら?」 雛はただじっとして語りかけた。 「私にとっては楽しさも苦しさも構わない。 けれども、そうね、私の神性(しんせい)をたくさんのもので満たせたら、これ以上の幸せはないわ」 アリスはそれを聞いて全身の力を抜き、瞼を閉じた。 小鳥の囀りにアリスは目を覚ました。暫く微睡んでいると、鳥たちがバサバサと飛び立つ音が耳に入った。はっとして横を見ると、既に雛の姿は無かった。代わりに、枕元には一枚の手紙が添えられていた。アリスは寝転んだままそれを手に取って読んだ。短い文章だった。アリスは読み終えるとそれを丁寧に畳み、起き上がり、壁の暦を捲って来年の三月四日に丸を付けた。 おわり ※『ウマと騎馬兵』より