揺れ動く三人目のスポイラー(後編)
※『揺れ動く三人目のスポイラー(前編)』の続きです。 -------- 私の住まいは木造の小屋である。んでもってどの天狗の住居もそうなのだが、山の中に隠れるようにして建っている。 山の奥深くを分け入り、木の引き戸をガラリと開けた。中からぶわっと埃っぽい空気が吹き出て、私の顔に降りかかった。横にいる椛もブンブンと手を振り回していた。古いから許してね。 間取りは人間で言う六畳一間であり、左手には大きめの机、右手には棚があり雑多な小物が仕舞われている。床はバッチリ畳が敷かれている。 私と椛は土間で靴を脱ぎ、机の前に並んで座った。さていよいよ記事を書き始めるのだが、その前に一つだけ椛に確認しておきたいことがあった。 「本当に記事一本を任せていいの?」 椛が執筆を手伝うと言い張るので地底の記事をお願いしたけれど、大丈夫なのだろうか。若干の不安を感じながら左にいる椛の手先を見ていると、 「自信はあります!」 と明朗な返事が来た。私は何も言わず頷き、正面の紙に目線を戻した。 窓から差す光が私の目を突いた。目をぎゅっと瞑り顔をずらした。その折、枕にあるまじき摩擦に違和感を覚え下を見ると、そこには焦げ茶色の板が広がっていた。どうやら机の上でそのまま寝てしまったようだ。 机を枕にしたまま左方を見た。椛が、こちらに顔を向け口を半開きにして眠っていた。よく見ると口の端から涎が垂れていて、原稿の縁を薄く濡らしていた。椛、仕事がちょっと増えたけれどがんばって。 私たちは明け方のうちに原稿を纏め、急いで山伏天狗のところへ赴き印刷を頼んだ。そうしてできあがったホカホカの新聞をいち早く人里のカフェへ渡すため、即座に妖怪の山を飛び出した。 その店は人里の景観に浮いた煉瓦造りで、店先には洒落たガス燈が吊るされていた。木製の扉を押すと、カラカラコロンと小気味の良い音と共に、香ばしい空気が鼻を触った。 店長の女性は私たちを見るなり席へ案内しようとしたので、慌てて「ちょっと待ってください」と断ってから、事情を説明することにした。 「ここのお店では天狗の新聞を置いているそうですが、この新聞も並べてもらえないでしょうか?」 店長は「ではあちらに置いておきましょうか」とにっこり笑った。私たちは入り口付近の机に新聞を配してから、珈琲を頼むことにした。 奥の席で椛と向かい合わせになって珈琲を楽しんでいると、心地よい扉の音が鳴り渡った。 「どうも。『文々。新聞』です」 声の方を見てみると、新聞を抱えた文が店長と親しげに言葉を交わしていた。それから文は机に新聞を置こうとして、伸ばした手を一瞬ぴたりと止めてから、『花果子念報』の左に新聞を並べた。 それを終えると文は爽やかな笑顔でこちらへ近づき、隣のテーブルに腰かけた。 「いやー、いろんなところに新聞を撒かないといけないから遅れちゃったわ」 文は、まだ配られていない『文々。新聞』の束をドカッとテーブルの上に置きながら、ちらりとこちらを見た。私たちのテーブルにはペラペラと捲れるほどの部数しかなかった。けれどもそんなの関係ない。 「挑発は無駄よ。今日の夕方には、あなたが目に涙を浮かべていることでしょうね」 私は強気で文の目元を見た。文は頭の後ろに手を組んで天井を見上げ、大層寛いでいた。 勝負の付け方だが、私たちのと文のと、どちらの新聞が多く読まれたかを集計してもらうよう店長に頼んだのだ。だから今日中に勝敗が決する。 「そういえば」 ふと、文がこちらへぬるりと首を向けた。 「新聞を配り終えたらまた来るから、椛はここでちょっと待っていてくれない?」 穏やかな口調だった。椛が名指しされたので私は思わず手をぎゅっと握り締めたが、当の椛が落ち着いた態度だったので安堵した。 「わかりました」 「じゃ、お願いね」 文は珈琲を頼みもせず席を立ち、山積みの新聞を抱えて店を後にした。軽やかな足取りだった。 フレンチトーストなるものをうまうまと頬張っていると、射命丸がバタバタと店へ入ってきた。 「早かったですね」 息を切らせながら対面の席に着く射命丸に、挨拶代りの労いをかけてみた。 「そりゃあ待たせ人がいたからね」 射命丸はそう返しつつ私のフレンチトーストをちょっとつまんだ。 「射命丸さん」 元はと言えば射命丸が私を呼び出したのだが、こっちにだって気になることがある。 「あなたの意図は何ですか?」 口をもぐもぐさせる射命丸を、私は真剣な眼差しで見つめた。射命丸の口の動きが速くなった。喋るために口を空にしようとしているのだろう。それにしても、高速で噛み砕いて飲み込もうとするとは、さすがは鴉天狗と言ったところか。 口の上下を見ながらそんなことを考えていると、ごくりと喉を動かした射命丸がようやく言葉を返した。 「貴方を自由にさせたらどうなるかな、って思ったのよ」 非常にさらりとした口調だった。だが思わぬ返答に私は言葉を失ってしまった。射命丸はそんな私の様子を見透かしてか、少し顔を寄せて言葉を続けた。 「私の側に付くのかはたての味方をするのかそれとも、いやはや、おもしろい観察ができたわ」 私は、ケタケタと笑う射命丸の手元を見た。黄色のパンくずが微かに残っていた。 「でもね」 射命丸はテーブルに手を掛け思いきり身を乗り出してきた。驚いて正面を見た。鼻と鼻がくっつきそうなほどに、射命丸の顔が接近していた。 「はたてに加勢するならするで、先にひと言ほしかったな」 目の前にある射命丸の瞳は、ほんの少しだけ揺れている気がした。 「で、椛はどういう考えではたてを手伝ったのかしら」 再び腰を下ろした射命丸は、いつの間にか私の珈琲を手に持っていた。 覚悟していた質問がついに飛んできた。私は一度珈琲で落ち着こうとして、手元に無いことに気付いて、仕方なく珈琲代わりに固唾を呑んでから、努めて冷静に答えた。 「あなたの思い通りにさせたくなかったのです」 言ってから、固く口を結んだ。恐る恐る射命丸の表情を見た。しかしあからさまな反応を見せず、珍しく真摯な眼差しを私に向けていた。私は頬の筋肉を緩めた。 「それに、私がしたかったことも成し遂げたつもりです」 横に置いてあった『花果子念報』を掲げ、そう付け加えた。 「そう」 射命丸はぽつりと呟いた。だがその次の瞬間、射命丸はきらきらとした笑顔をこちらに見せた。 「じゃ、今日から貴方も私の対抗新聞記者(スポイラー)ね」 「臨時の非常勤ですけどね」 私は射命丸に右手を差し出した。射命丸は自分の手を振りかぶり、獲物を捕らえるように私の手を思いっきり掴みかかった。すなわち握手に応じた。掌がぶつかる乾いた音が店内に響いた。 夕暮れ時、私は人里で椛と待ち合わせをしてから、件のカフェへ向かった。店に入ったら結果が明らかになる。そう思うと心臓が高鳴り、一歩一歩がぎこちなく感じて仕方がなかった。 カフェの前に着いた。木製の扉は夕日を反射させて佇んでいた。私は取っ手に手を伸ばそうとして、けれども引っ込めて椛を見た。 「ねえ椛、開けてくれない?」 店の前にいるだけで緊張してしょうがない。手は汗でぐっしょり濡れていた。 「はたてが、自分で開けましょうよ」 椛は手を背中に組み、体を横に揺らしていた。 「えー!」 しょうがないなあと呟き気を紛らわせながら、私は右手で取っ手を握った。ひんやりとしていた。覚悟を決め、回すようにして扉を開けた。 正面のカウンターでは店長がカップを磨いていて、奥の席では既に文が陣取って何やら飲んでいた。 「店長さん、その、結果は出ました?」 カウンターの前まで近寄り、あまり回らない舌で必死に尋ねた。ふと横を見ると文も並んで立っていた。 「ええ。どっちもいろいろな人が読んでいたし、正確に数えたわけじゃないけれど……」 ああきっと次の一言で結果が分かるんだろうな。私は鼻から思いきり息を吸った。 「敢えてどちらかと言えば、『花果子念報』なのかな」 その響きを聞いた瞬間、周囲の空気が急に暑くなったような感覚を味わった。いやきっと私が上気しているんだろう。だってこれは! 「いやったあ!」 私は夢中で両手を大きく挙げた。それから、右隣で飛び跳ねている椛と手を取り合い喜んだ。そんな私たちの間に、文がにゅっと顔を覗かせてきた。 「ちゃんと字が書けるようになって何より」 文はその言葉だけを残し、早々に店を後にした。文の後姿を見てあっ、と思ったが、届かなかった。 椛の方に顔を戻すと、目をうるうるさせてこちらを見ていた。頭を撫でてみた。椛が私に顔をうずめた。もっと頭を撫でてやった。 椛に一息ついてもらうことも兼ねて珈琲を頼み、穏やかな笑顔に戻ったのを確かめて店を出た。外は薄暗くなっていて、カフェのガス燈が店先を柔らかく照らしていた。 「ねえ」 私は勿体ぶるように呼びかけてから、顔の半分を照らされている椛に言葉を重ねた。 「これからも、一緒に新聞づくりをしよう?」 私の提案に、椛はしっとりとした笑みを浮かべた。 「そう言ってもらえるのはとても嬉しいです。 けれども他にもしなければならないこと、したいことがありますから」 とてもゆっくりとした語り口だった。私にわざわざ気を遣ってくれているのだろう。 「それでも、たまにだったら助手になりますよ。あの『文々。新聞』にまた泡を吹かせたいですから」 椛の一言一言が、私を優しく満たしてくれる。 「椛、本当にありがとう」 月並みな言葉に精一杯の思いを込めた。 「こちらこそ。私も自信が持てました」 椛は改めてこちらに微笑み、手を振って自分の帰路を辿り始めた。私も思いきり手を振った。背を向けた椛は、筆とメモ書きを右手で力強く握り締めていた。 おわり 『オオカミとヒツジたち』より