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阿求の思い出


 稗田阿求は何もしないことを怖がった。ひとたび読書か編纂の手を止めれば、色と匂いの夥しい思い出が阿求を取り囲み、圧迫した。そのつど阿求は誰もいない縁側の片隅で悶え、書物の端を握りしめた。


 阿求は気分転換のために屋敷を出た。人里を離れたけもの道の真ん中で、阿求の姿は色褪せた雑草にぽつりと浮き出ていた。阿求は目的地へ向かうことだけを意識して、吹き付ける木枯らしが頭の片隅に入り込まないようにと念じた。
 阿求にとって長い長い石段を踏み越えた先に、冷え冷えとした神社の境内が現れた。石畳を歩く下駄の音が澄んだ空気に波紋を作った。阿求は少し朽ちた賽銭箱の前で立ち止まると、袖の奥から一枚の銀銭を取り出し、箱の上部に空いた隙間を滑らせた。ゴトリと鈍い音が足元に響くのを確かめてから、阿求はそっと腰を曲げた。
「来ていたのね」
 最後の礼を奉げたとき、背後からそよ風みたいな声が掛けられた。阿求は「あら」と呟いて、着物をはためかせるように振り向いてみせた。その先には林檎みたいな赤い装束の少女がすらりと立っていた。その服装が、“私は博麗の巫女です”と恭しく教えてくれた。

 阿求は巫女に促されて社殿の縁側に向かい、くすんだ色の木の板に腰かけた。程無くして部屋の中から、巫女がお盆を持ってやってきた。その焦げ茶色のお盆からは透き通った春先の匂いがして、阿求は頬を緩ませた。
「この神社は好きよ。いい匂いに満ちているから」
 阿求は独り言のつもりで囁いたが、隣に座った巫女が「へえ」と相槌を打った。それから阿求はお盆に乗った湯呑みを手に取り、両手を添えて少し口に含んだ。舌を火傷しそうな熱に阿求は目をぎゅっと瞑り、巫女の方を見て微笑んだ。

  おわり


『老婆とワイン壷』より