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橙のあざとい知恵


 橙が躓いた。手に持っていた油揚げが綺麗な放物線を描き、霧立ち込める湖にポチャリと落ちた。その音に、さっきまで思い描いていたご主人様の笑顔が霧散した。
 橙は屈んで湖の畔(ほとり)を見つめた。水面は、何事もなかったかのように揺らめくばかりであった。辺りは昼なのに薄暗かった。

 暫くのあいだ膝を抱えて湖を眺めていると、まばゆい星を帽子につけた、赤い長髪の何者かが横を通りかかった。橙はその者に目を光らせ、急いで呼び止めた。
「ねえそこの方」
 長髪が振り向くのに合わせて言葉を続けた。
「湖の底に、おいしいものがあるみたいだよ」
 長髪が目を輝かせて身を乗り出した。かと思うと、上下を着たまま勢いよく湖に飛び込んだ。水の粒が辺りに飛び散ったのを、橙はさっと避けた。

 濡れた地面が渇く間もなく、骨格の良い体が浮かび上がってきた。服は重たそうに水滴を垂らし、自慢の髪は体にべったりとくっついていた。
 橙はじんわりと立ち上がってそこに近づき、息を切らす長髪が右手に持つ濡れた油揚げに手を伸ばし……、素早くそれを奪うと駆け足でその場を離れようとした。
 だが橙は手ごろな大きさの石に躓いた。あまりにも勢いよく駆け出したものだから、今度は体ごと湖に突っ込んでいった。盛大な水柱が上がった。

 少しの間を置いて、橙が四つん這いで岸に這い上がってきた。長髪は呆然としてその様子を眺めていた。
 橙は体のあちこちから雨のように滴を落としつつ、ゆっくりと立ちあがった。そして懐から濡れた手ぬぐいを取り出すと、それを頭に乗せ、腰を振って踊り始めた。

  おわり


『キツネとヤギ』より