アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

小傘錯誤


 小傘は、霧が濛々と立ち込める湖の畔に身を潜め、誰かが通りかかるのをじっと待っていた。暫くすると、向こうの霧に背の高い影がぼんやりと浮かび上がった。小傘は息を呑み、目を皿にして挙動を見守る。すると、純白のブリムを被るメイド服の少女が姿を現した。その人間が近づくにつれて鼓動が乱れに乱れ、小傘は今際になって足が竦んだ。少女は鶴のような足取りで瞬く間に通り過ぎようとする。この機を逃(のが)してはいけない。小傘は覚悟を決め、右手に持つ唐傘を思いきり振り上げて飛び出した。
「うらゃぁ!」
 渾身の叫びは霧の向こうへ徒(いたずら)に響き渡った。小傘は両手を万歳したまま立ち止まり、二人の視線は吸い寄せられたかぴたりと合致する。メイドは小傘を捉えると、冷めた瞳で苛立ち混じりに思いきりナイフを投げ掛けた。気が付くと全方位を無数のナイフに囲まれ、小傘は、少しだけ眉間に皺を寄せた。直後、尖った刃先が全身に突き刺さり、小傘は盛大な土煙をあげて地面に倒れ込んだ。
 小傘は、ハリネズミになったまま岸辺に転がっていた。いったい私の何がいけなかったのか。確かにあのメイドは急いでいたのかもしれない。けれど、あそこまで危害を加えることは無いでしょう。私はただ、人間のささやかな驚きを分けてもらおうとしただけ。それなのにあんな仕打ちを受けるなんて。いつの間にか小傘は、霧に囲まれた白昼の下でさめざめと涙を流していた。やがて平静を取り戻した小傘は、ひっそりと決意した。必ずや、この手で人間を驚愕の極地に突き落してやろうと。


 翌日、通い慣れた山の神社へやって来た小傘は、人気(ひとけ)が無いのを見計らって、もぞもぞと縁側の下に潜り込んだ。肘に付いた土を軽く手で払い、うつ伏せになって時機を待つ。遠くで小鳥の長い鳴き声が聞こえる。太陽がもうじき南天に達する頃合だった。
 不意に、青地に水玉模様の裾が小傘の眼前を遮った。見慣れた布地で、小傘はすぐにそれがこの神社の祝子(ほうり)だと判った。小傘は地面を擦るようにそろそろと近づき、日光の下にほんの少し顔を晒した。この角度では巫女の表情が窺えないものの、足を風に揺らしているのが判る。小傘は乱れそうな息を必死に整え、手を構え、水玉の丈長スカートから控えめにはみ出した白い足首を、掴むと思いきり引っ張った。巫女の体は思いきり前のめりになった。小傘はしめたと思った。だが次の瞬間、よく煮えた緑茶が頭上に降りかかった。

 結局、驚いたのは小傘の方で、いつものことと言わんばかりに追い払われるばかりだった。小傘は相手が悪かったと思って、早々に神社を後にした。丁度その頃、空は雑巾みたいな灰色の雲に覆われていた。程無くして雨がしとしと降り始めた。鼻先に水滴を浴びた小傘は閃いて、前のめりに空中を旋回した。
 暗い森に降り立った小傘は一軒の小屋へ辿りついた。庇(ひさし)から滴る雨が、木の板と触れて軽やかな音を奏でる。正面脇の窓から中を覗く。人の姿は見当たらないが、奥の方で何やら物を散らかす音が聞こえる。小傘は忍び足で、感づかれないよう慎重にドアノブを捻った。玄関に入ると、檸檬色の簡素な絨毯が目に飛び込んだ。続いて、土間の横に大きな円柱形の傘立てが備えられているのに気付いて、小傘はこれに目をつけた。小傘はまず、自分が持っている茄子色の傘を徐に傘立てへ加えた。それから小傘は、自分の身を無理やり傘立てへ押し込んだ。十分に隙間のあった木製の円柱は、思いのほか素直に小傘を受け容れた。小傘は傘立ての中で膝を抱え、家主がやって来るのを待った。
 途中で足が痺れ出して、ついでに背中も痛み始めて、小傘はよほど諦めて帰ろうかと逡巡した。だがその度に、必ず人間を驚かせんとする決意が小傘を引き戻した。息も絶え絶えになった頃、漸く向こうから忙しない足音が近づいてきた。小傘は押し黙ったまま天井を見上げる。足音は小傘のすぐ横で止んだ。空気の淀む音が鼓膜をこする。直後、小傘の頭上に一本の細い手が伸びてきた。その手は迷いなく茄子色の傘を引き出そうとする。小傘は緊張に歯を食いしばったのち、傘と共に傘立てから飛び出した。
「おどろけえ!」
 ところがうまく傘立てから出られず、小傘は円柱に半身が埋まったまま思いきり前に倒れ込んだ。あれやこれやが落っこちて盛大な音を上げる。黒帽子の魔法使いは呆れた表情で小傘を見下ろす。小傘は自由に体を動かせないもどかしさに、ただ苦笑いを浮かべる他なかった。すると魔法使いは、「丁度いい」と言って小傘を引っ張り出すと、そのまま小傘を連れて家を飛び出した。

 小傘は魔法使いの傘代わりにされて、日がな一日延々と連れ回された。傘としての本望ではあるが、今日の小傘には苦みを感じさせるばかりだった。気が付くと雨も止み、西の空には夕日が揺らめいている。紅い巫女のいる麓の神社で魔法使いと別れた小傘は、帰りの獣道で途方に暮れていた。いっそのこと、今日はこのままおしまいにしようかと思った。だが小傘の魂は、本懐を成し遂げるまで帰ることを許さなかった。動くに動けなくなった小傘は自棄(やけ)になって、べたりと地面に伏せた。辺りはいよいよ闇に変わろうとしていた。すると前方から、青空のようなスカートを纏う少女が軽い足取りでやって来た。恐らくは神社で巫女に面倒を見てもらったのだろう。薄闇で見通しが悪いのか、少女はこちらに気づく素振りも見せない。小傘は固唾を呑み、神経を研ぎ澄ませて少女を待ち構えた。少女は、ブルトン帽子に付いた桃とその浮ついた表情がはっきりと見て取れるまでに近づいてきた。そうして、右足を上げて、小傘がいる地面を踏み越えようとした。
「わあっ!」
 小傘は手と足でカエルのように飛び上がり、腹の底から息の塊を吐き出した。少女は弾くように飛び退いて、尻餅を付いて目をぱちくりさせた。その反応に小傘も目を丸くした。これ以上ないほど質の良い驚きの感情が、空気を伝って小傘の皮膚をびりびりと震わせる。小傘は萎れるようにその場に座り込み、夕焼けを見上げて力無く笑った。気がつくと少女も一緒になって笑っていたので、小傘はこみ上げて、少女に顔を埋めて泣き喚いた。

  おわり


『カラスと水差し』より