アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

楕円の知恵


 麓の神社の裏手には、乳白色の煙漂う温泉があった。うつほは徐に上下を脱ぎ、持ってきた五、六個の卵を笊(ざる)に入れて、足先からじっくりと湯に浸かった。手を離す。卵を乗せた茶色の笊は小波に揺られて幾千里、目と鼻の先を果てない航海へ漕ぎ出した。うつほはすっかり脱力した様子で、湯煙の向こうを見上げた。
「なんだ、先客か」
 ふと煙霧の向こうに黒い影が映り、次いで、白黒の上下を纏う少女が姿を現した。ひしゃげたテントのような黒い帽子を被り、右手には自身の背丈より長い竹箒を抱えている。少女はうつほから少し離れた岩場に腰かけて、花弁のような黒いスカートを捲って裸足を控えめに浸した。
「入らないの?」
「ああ。どっぷり入ると魔力が吸い取られそうな気がしてな」
 魔法使いは岩場に坐したまま思いきり伸びをした。
 その時、反対側で破裂音と共に水柱が上がった。うつほと魔法使いは同時にそちらを見遣る。波紋の中心から銀髪の少女が顔を出し、ぶるりと頭を震わせた。そうしてうつほたちを見た途端、銀髪はピタリと硬直した。
「あ……。他の方がいたのですね」
 頭髪が獣の耳みたいに膨らんでいるその少女は、顔を赤らめて隅の方に委縮した。
 三人は積極的に言葉を交わすわけでもなく、各々が各々の血をじんわりと温めていた。三人の真中では卵の笊が上下している。自然、三人の視線はその笊に吸い寄せられた。
 ふと、魔法使いが陰のある目つきでうつほたちを見た。そして、魔法使いは湯から足を引き揚げ、のそのそとうつほの耳元へ近寄った。
「確か地獄の鴉だったか。ここだけの話なんだが」
 神妙な様子で囁く魔法使いに、うつほも弛んでいた頬を引き締める。
「向こうにいるのは恐らく犬の妖怪だ。犬は鳥をよく食べるらしい。鴉なんかは格好の獲物だろうな」
 熱々の湯に浸かっているにも関わらず、うつほの顔はスミレのように青ざめた。魔法使いはうつほの肩をポンポンと叩き、続いて銀髪の下へ近づいた。
「あそこで極楽している鴉だが、どうやらお前んとこの山へ立ち入った前科があるらしい。捕獲するならこの時を措いて他に……、いや、今のは無かったことにしてくれ」
 魔法使いは何事も無いような素振りで元の位置へ戻り、再び足を温めた。
 次第に、空気がぴりぴりと肌を刺激し始めた。うつほと銀髪は互いに顔を背けつつ、時折互いの顔色を窺う。魔法使いは足を揺らして波の動きを眺める。辺りの湯気はいよいよその白さを増して、まるで、この温泉が外界から切り離されているかのように見える。
 肩まで湯に浸かっている銀髪が、背後に寝かせていた剣へそっと手を伸ばした。その直後、銀髪は湯から勢いよく飛び出してうつほに迫った。乱雑に跳ね上がった飛沫(しぶき)が岩場を黒く塗らす。うつほは目を真ん丸にして、慌ただしく温泉を這い出すと服も着ないままに走り去った。銀髪も、そこらにあった布を体に巻いてすぐにうつほの後を追った。
 二人分の喧騒は瞬く間に静まり返った。魔法使いは湯船に残された笊を見て、ひとり口の端を歪めた。箒の柄(え)で笊を手繰り寄せる。薄い橙(だいだい)の卵たちは、どれも生まれたてのような瑞々しさを携えていた。
「あら魔理沙、黙って敷地へ入るとはいい了見ね」
 笊ごと帽子へ収めようとしたところ、不意に冷ややかな声を浴びせられ、魔法使いは小さく身を震わせた。
「ま、わざわざ訪ねてきたってことは手土産の一つでも持ってきているんでしょうけど。……それは卵? いいわ、入湯料代わりにしてあげる」
 声の主は背後から笊をひょいと拾い上げ、悠々と霧の向こうへ消えていった。魔法使いは、笊を抱えた格好のまま中空を見つめた。

  おわり


『ワシとネコとイノシシ』より