アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

キスメの心替え(前編)


 暗い暗い井戸の底、キスメは吊るされた釣瓶に丸まって、小さな夜空をじっと見上げていた。時折、湿った風が灰色の壁を伝い、薄い生地の白無垢を微かに揺らす。水滴の落ちる音と縄の軋む音が、空洞にうっすらと響く。
 不意に釣瓶が傾き、キスメは慌てて縁を握った。止まったり動いたり、揺れながら、キスメを乗せた木の釣瓶が次第に持ち上げられていく。円形に積まれた石の壁が下へ流れていくのを見送りながら、キスメは静かに口の端を結んだ。壁と空の境界が次第に迫る。
 井戸の縁を越えた途端、涼しい風がはらりと髪をかき上げた。水を汲もうとしていたのだろう、眼前の少女は薄汚れた縄を握ったまま、釣瓶から顔を出すキスメを呆然と見つめている。
「貴方の首、頂いていくよ」
 キスメは稲刈りに使うような三日月状の鎌を取り出し、井戸を跨ごうと片足を上げた。少女は目を真ん丸にして金切り声を張り上げた。それと共に少女が縄から手を離したものだから、キスメの足元はふわりと感触を失った。瞬く間に落下する釣瓶を尻目にキスメは必死で壁の縁にしがみ付き、妖怪特有の腕力を惜しみなく発揮して井戸から這い出す。少女は腰を抜かしたのか、尻餅を付いて震え出した。その顔いっぱいに恐れの色が広がっている。キスメにとって見慣れた表情だった。
「大丈夫、痛くしてあげるから」
「そこまでだ」
 首元目掛けて鎌を振り上げたその時、背後から凛とした声が響いた。振り返ると、銀髪の女性が腕を組んで四つん這いのキスメを見下ろしている。花弁のように広がる湖色(みずうみいろ)のスカートが、風を受けて小さく揺れる。
「その者を放してくれないか」
「嫌だと言ったら」
「よく聞かせてやる」
 銀髪は夜空を背に舞い上がり、蛍のような白い弾を自らの周囲に展開し始めた。それらは大小さまざまな三角形を描きながら銀髪を旋回して、水を撒くように青い弾を放出する。
「その程度?」
 キスメは起き上がり、波のように襲いかかる弾を軽い跳躍で避けていく。
「気を取られ過ぎだ、妖怪」
 突然の呼びかけだった。銀髪の方へ目線を戻すと、白い光球が視界をすっぽり覆うほどに接近していた。

 キスメは冷たい地面に伸びたまま、正面の様子をぼんやりと見つめた。先ほどまで恐怖に打ち震えていた少女は、銀髪に深く頭を下げた。それを見たキスメは、闇夜に浮かべるにはあまりに眩しい顔つきだと思った。これまで人々をさんざん怯えさせてきたキスメにとって、それは初めて見る表情だった。
 少女は銀髪に先導され、裏道から人里の領域へ行ってしまった。その境を越えると、もう手出しすることは叶わない。
「あの顔は何?」
 後には、鈍い痛みと蟠(わだかま)りだけが残った。


 いつものように井戸の底で眠っていたキスメは、まだ日も高いうちから身なりを整え、外へ飛び出した。
 道行く人に尋ね回り、辿りついた先は一軒の平屋だった。年季の入った板材の壁に、背の低い障子窓がついている。辺りには蝉の声がけたたましく鳴り響く。
 キスメは正面の引き戸を軽く手で叩いた。戸に張り付いた硝子(がらす)が振動でこすれる。少しして、「はい」と通りの良い声に合わせて、濁った硝子に青い影が映った。
「どちら様? あ」
 ガラガラと戸を開けた女性は、両手を揃えて佇むキスメを見て固まった。キスメはその者の全身をゆっくりと見回す。銀色の長髪、水底へ溶け込むような色の上下、間違いなく昨日の者と一致していた。
「何しに来た」
 目の前の女性は怪訝な表情でキスメを窺う。キスメは、一息に申し出た。
「貴方のお手伝いをさせてください」

 その女性は名を慧音と言った。慧音に促され、キスメは座敷に足を踏み入れた。八畳一間に、黒光りする背の低い長机が三列に並んでいる。一番後ろの机を正面に坐ると、慧音がその右側に腰を下ろした。
「手伝うというのは何だ、授業をしてくれるのか」
「授業って何?」
「なんなんだお前は」
 慧音は今日何度目かの唖然を顔に浮かべた。
「だから、人里を守るお手伝いをさせてほしい」
 慧音はいよいよ眉間に皺を寄せた。
「それは本気か?」
「本気」
 キスメは膝元に拳を作り、慧音の目をじっと見据えた。慧音も鋭い目つきでキスメを見返す。思わず首を逸らしそうになるが、心の底で踏み止まり、負けじと慧音に顔を寄せる。
 ふと、慧音は目の輪郭を緩めてキスメに向き直った。
「そうだな、こちらも人手不足だから、人里の護衛を申し出る者はいつでも歓迎している。だが、昨日人間を襲った妖怪に人間を守りたいと言われて、はいどうぞと認めるわけにはいかない。けれどもお前の真っ直ぐな気持ちはよく伝わった」
「どういうこと?」
「常に私の傍にいるんだ。私がお前の面倒を見る。それなら問題ないだろう」
 慧音は口を結び、再びキスメを見つめた。けれども、その眼差しはもはや先ほどのように尖っていなかった。
 キスメは断る理由も無く、ただ小さく頷いた。


 闇が降りてゆくに合わせて付近の喧騒も止み、星空の下、日中の熱気を冷ます風が縁側に吹いていた。
「まあ、そう力まなくても」
 前のめりになって襲撃を待ち構えるキスメに、慧音が横からそっと湯呑みを差し出した。
「だって、いつ誰が来るかわからないから」
「お前みたいなのがいない限り、そう毎日毎日何かが起こるわけじゃないんだ。さ、落ち着いたらちゃんと寝るんだよ。布団は敷いてあるから」
 キスメは湯呑みを受け取り、中で揺らめく濁った緑茶を少しばかり見つめてから、そっと唇を寄せた。
 慧音の提案により、キスメはこの家で寝食を共にすることになった。殆ど井戸でしか寝ることの無いキスメにとって、初めてだらけの夜は拍動を一層落ち着かなくさせた。
 ふと、右隣に腰掛けた慧音をちらりと見た。慧音は、しきりにこちらの様子を窺うようにしてお茶を飲んでいる。
「あの、貴方は寝ないの?」
 慧音は湯呑みから口を離し、声を上げて笑った。
「私が先に寝たらお前の暴走を誰が止めるんだ」
「ごめんください!」
 その時、玄関の方から張りつめた呼び声が響いてきた。

 キスメは慧音にぴったりと附いて夜の森を駆け抜ける。
 慧音の下を訪れたのは、淡い着物を乱して息を切らした大人の女性だった。髪を振り上げて「子供が森へ出掛けたまま帰ってこない」と訴えるその人間に、慧音は二つ返事で家を飛び出した。
「危ない!」
 慧音の叫びに顔を上げる。メロン色の光球が間近に迫っていた。キスメは咄嗟に地面を蹴り、右に倒れ込む。
「心を乱さないで。ほら、前を見るんだ」
 キスメは慧音の手に掴まって起き上がり、木々の向こうに目を凝らした。奥の方に小さな子供の影が見える。
「あーあ。一撃で仕留められると思ったのに」
 向こうの影に気を取られていると、突然真上から声が降ってきた。見上げると、木の葉に隠れた空の隙間から少女が姿を現した。丸みを帯びた白い長袖の上に、小豆色のワンピースを纏っている。いかにも鳥獣らしい灰色の羽をはためかせながら、口元に手を遣ってキスメたちを見下ろす。思ったよりも幼い外見に、キスメは固まっていた心が少し解(ほぐ)れるのを感じた。
「その恰好、暑くないの?」
「妖怪に暑いも寒いも無いよ」
「額に汗をかいているけど」
「帰るぞ」
 不意に慧音が横槍を入れてきた。傍らには、怯えた目つきの子供をしっかりと引き寄せている。
「もういいの?」
「いいんだ。退治に来たわけじゃない、要らぬ手間は掛けずに放っておけ」
「誰が手間の掛かる妖怪よ」
 ふと、上空の少女が風に押されたように後ろへ下がった。かと思うと、キスメら目掛けて勢いよく飛び込んできた。キスメは視界の端に慧音を見る。慧音は、子供を庇うようにして地面に伏せた。ならば自分しかいない。
 キスメは予め見当をつけていた岩に飛び乗り、妖力を一杯に込めた。岩がふわりと宙に浮く。キスメは大の字になって岩肌へ張り付き、弾丸の軌道で迫り来る少女をじっと見据える。少女は、岩とキスメを見て躊躇(ためら)いの色を浮かべた。今しかない。
 最後の一押しを念じると、キスメを乗せた岩は気流を受けたように舞い上がった。標的を失った少女は岩の下を通過しようとする。
「落ちろ!」
 キスメは釣瓶の感覚を頭いっぱいに浮かべる。その瞬間、キスメは大地に思いきり引っ張られた。

 地面にぺたりと坐るキスメの横には、先ほどまで岩の下敷きになっていた鳥の少女が伸びきっていた。
「それにしてもやりすぎだ、キスメ」
 キスメの前に屈んだ慧音に、額を指で小突かれる。キスメは、慧音が初めて自分の名前を呼んだことに驚いて目を見開いた。
「さ、今度こそ帰るぞ。この子のお母さんもお待ちかねだ」
 かの子供は、慧音の袖を離すまいと必死にしがみ付いている。辺りには、梟(ふくろう)や虫の声が疎らに響く。
「ねえ」
 急に足元の少女に呼び止められたので、キスメは躓(つまづ)いて転びそうになった。慧音は呼び声に気が付かなかったのか、子供を連れて闇の向こうへ消えかかっている。
「あんた妖怪でしょう? どうして人間を助けようとするの」
 キスメは暫し答えに窮したが、ふと泡のように浮かんだ言葉を、そのまま放り投げた。
「興味があるの。人間に味方するってどんな感じなんだろうって」
 少女は地面に伏したまま、それ以上何も言わなかった。キスメは「気を付けてね」と残し、慧音の後を追った。

 里の境界で待ち構えていたお母さんは、慧音たちを見て一目散に駆け寄ってきた。
「ありがとうございます、本当にありがとうございます!」
 子供を抱き締め何度も頭を下げるお母さんに、慧音は照れくさそうに頭を掻く。その隣でキスメは、間近に見る人間の笑顔に心を奪われた。顔をくしゃくしゃにして涙を流す様子がよほど珍しかったので、観察するような目でしげしげと見つめてしまい、慧音に肘でつつかれた。冷え込みの激しい夏の夜に、不思議と温かみを感じた。

  つづく


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