アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

勇気の源


 斜陽に照らされ赤黒く染まった竹林は、安穏の夜を待ちわびるように静まり返っている。妹紅は、紅の空を遮る竹の葉をぼんやりと見上げながら歩いていた。
 ふと、草の擦れる音が聞こえて妹紅は身構えた。見ると、夕日を背景に長身の影が揺らめいている。頭の上には縦長の耳がすらりと伸びる。妹紅は、見慣れた人物をそれ以上気に留めず、再び右足を踏み出した。
 だが妹紅はすぐに歩みを止めて即座に竹の裏に隠れ、そっと、向こうの様子を窺った。かの少女の背後を、鍵穴状のシルエットが付き纏っていることに気づいたのだ。少女が止まると鍵穴も静止して、少女が歩くと鍵穴も動き出す。少女が後ろの者とやりとりする気配は無い。きっと、少女は存在に気づいていないのだろう。そう踏んだ妹紅は身を屈めて雑草をかき分け、少女たちの後方に列して自分も後を附けることにした。
 夕日を右の頬に浴びながら、妹紅は少女を付け回す者の背中をまじまじと見た。少し茶色がかった黒髪が腰まで掛かるぐらいに伸びていて、そよ風でしきりに舞い上がる。上下を白と赤に塗り分けたドレスを柔らかく纏い、開いた首元からは引き締まった白い肩を覗かせている。頭のてっぺんには、三角に尖ったふさふさの耳が生えていた。
 その時、前方から土の滑る音が響いた。一旦横に逸れて音の方向を確かめると、先頭の少女がうつ伏せになって倒れていた。少女が右手に握っていた編み籠から、茶色の瓶や白い巾着袋が溢れている。少女の足元には拳ほどの石が埋まっていて、土筆(つくし)みたいな影を竹の隙間に伸ばしている。
 妹紅は少女を助けるため身を晒すべきか逡巡して、懸案の者の様子を探ろうと目を向けた。かの者は居なかった。妹紅は俄かに神経を尖らせ、周囲を見回した。鼻先に微かな風を感じ、斜め上に目を遣る。かの者は夕日を背に跳躍し、鋭く冷ややかな目で地べたの少女を見据え、鋭い牙を口の端に漏らしていた。
 妹紅は即座に指先から火球を放ち、地面を蹴ってこの獣人に飛び込んだ。だが妹紅が連撃を放つ前に獣人は逃げるように火を避けて、地面に蹲(うずくま)り、ぶるぶると震え始めた。

 妹紅はまず転んだ少女を起こし、それから、襲撃者が落ち着くのを見計らった。周囲は紫色に沈みかけていた。
「どうして鈴仙の後を附けたの?」
 改めて正対すると、この者は士族の娘のように端正な顔立ちをしていた。すらりと伸びた鼻筋が、額に影を作る。
「そこの兎さん、私の縄張りへ無闇に入り込んだのよ。そうでなければ襲うつもりなんて無かったわ」
 通りの良い声とは裏腹に、襲撃者は伏し目がちに答えた。妹紅は隣に並ぶ少女に目を遣った。少女は妹紅を見返し、そんなの知らなかったと言わんばかりに首を小刻みに振る。
「うっかりでも、やっちゃったことは仕方がないんだよ。さ」
 妹紅は少女の背中を軽く押した。少女と襲撃者が真っ直ぐに向き合う。少しの沈黙を置いて、少女は目をぎゅっと閉じ、「ごめんなさい」と頭を下げた。
「顔を上げて。私こそ、本能のままに動いてしまったのだから」
 襲撃者は少女の肩を静かに叩き、恐る恐る体を起こす少女の目を一心に見つめた。そうして二人は、どちらからとも無く、笑みを零した。
 妹紅は両手を頭の後ろに組み、風景画を見るように二人の様子を眺めていた。すると、少女が頭の白い耳を揺らして妹紅に振り返った。
「やっぱり妹紅さんはすごいなあ。争いごとを見かけたら、いつでも勇敢に立ち向かうんだもの」
 その眼差しがあまりに透き通っていたから、妹紅は脇に目線を逸らした。
「勇気があるわけじゃないよ。竹林の安全を守るとか、人を送り届けるとか、夢中で何かに身を投じていないと、気が狂いそうなだけなんだから」
 妹紅は奥の暗闇へ向かって呟き、二人を再び見遣ることもなく、竹が生い茂る方へ歩いていった。

  おわり


『ロバとカエルたち』より