アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

悪戯の適正


 小町は電流が走ったように肩を揺らし、パチリと目を覚ました。右手を何度か握ってみる。
「無い」
 小町は素早く手元を見た。寝る前まで持っていたはずの鎌が無い。小町は凭(もた)れていた木から飛び起きて、立ち込める霧に目を凝らす。すると、正面に広がる川とは反対の方向に、青黒い小さな影を見つけた。その者からまっすぐ伸びる旗のような影までを認めた時、小町は駆け出していた。
「こら!」
 軽快な動きでその影を掴みにかかる。柔らかな感触を得て、かと思うと突き刺すような冷えを肌に感じる。小町の腕の中に、青色の妖精が収まっていた。妖精はジタジタと暴れるので、小町はとりあえず妖精を解放した。
「さ、その鎌を返してもらおうか。重いだろう?」
 妖精は渋面を顔いっぱいに浮かべながら、それでも素直に鎌を差し出した。小町は「どうも」と一言添えてから、鎌の柄や刃先を入念に確かめる。
「せっかく三途の川へ来たんだ。ちょっと観光していくかい?」
 鎌から目を離して見上げると、妖精はいつの間にか遠くをふらふらと飛んでいた。
「あらら。あんな悪戯っ子を放ってはおけないな」
 小町は跳ねるように呟きつつ、妖精の後を附いていくことにした。川には誰もいなくなった。

 妖精は人里を避けて曲がり、垣根みたいにびっしりと生えた竹林へ飛び込んでいった。小町も身を縮めて竹の間をかき分けていく。頭上遥か高いところを生い茂る葉の隙間から、微かに日光が漏れる。足元は暗く覚束(おぼつか)ない。
 暫く進むと、突如として竹林に覆われていた視界が開けた。前方には和を存分にあしらった屋敷が新築同様の風体で鎮座していて、周囲をぐるりと取り囲む竹がその屋根を見下ろしている。妖精に目線を戻すと、茶色の門を飛び越えて中へ入ろうとしていた。小町も慌てて後を追う。
 妖精に合わせて屋敷の内周を旋回していくと、広々とした裏庭に辿りついた。縁側の傍で、大きな耳を頭に生やした少女が物干し竿に衣類を吊るしている。その背中へ、妖精がこっそり音を立てずに接近しているのを小町は見た。思わず息を呑んでしまう。
 妖精はそろりと頭部に近づき、その者の右耳を掴むと、勢いよく縦に引っ張った。小町は目を見開いたのみならず、その耳が大根のようにあっさりと抜けてしまったのを見て、うっかり驚嘆の声を上げそうになった。右手で口を押さえ、左手で胸元に手を遣り鼓動が激しくなっているのを確かめる。少女は左耳だけを残したまま、こちらを振り向くことなく平然と衣類を干し続けている。妖精はいつの間にか姿を消していた。
 小町は自分でもおかしいと思いながら、吸い寄せられるようにして少女の背後へ歩み寄っていた。目の前には少女の後頭部、そして少し萎れた純白の左耳。小町は一度唾を呑んでから、震える手を耳の根元へ伸ばした。
 その時、少女が腰を捻るようにして小町の方を振り向いた。点と線で繋がったように視線が交わる。小町は瞬きもできず、意識の外で少女の目をまじまじと見つめた。少女の目は真っ赤に輝いていた。


 背中に痛みを感じて、小町は緩やかに目を覚ました。真上は木目の天井に覆われていて、斜め右に目を遣ると橙(だいだい)色の空が剥き出しになっている。
「やっと起きた。ごめんなさいね、縁側で寝かせてしまって」
 上体を起こして振り返ると、前開きの黒い制服に赤いネクタイを垂らす少女が、微笑みを携えて小町を見下ろしていた。頭部に目を向ける。内側の赤い白縁の耳が、立派に生え揃っていた。それを見て小町は突発的な偏頭痛を感じた。痛みに頭を押さえながら、寝ぼけ目で問いかける。
「あの、今日どこかでお会いしましたっけ?」
「そんなことありません今日初めて対面しましたよ」
「そっか。私の記憶にはさっぱりですが、何やらお世話になったみたいで。どうもありがとうございます」
 小町は立ち上がって一礼を送り、柱に立てかけてあった鎌を手に取って、庭から外へ飛び出そうとした。去り際に、小町の後ろで少女が呟いた。
「体の大きい者は悪戯に向いていませんよ」

  おわり


『ネズミと牡ウシ』より