アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

厄神の性(さが)


 山の斜面の小さな蔵には、両側の壁沿いに雛人形が俯き加減に並べられていた。鍵山雛は日陰に並べられた人形たちを一つずつ手に取り、繊細な筆先で埃を丹念に払っていく。
「おーい」
 快活な呼び声が薄暗い蔵に響いた。人形を持ったまま振り向くと、赤い帽子に葡萄を付けた裸足の少女が入り口に立っていた。外から差す光で、少女の影が蔵の奥までまっすぐに伸びている。
「何か用?」
 問いかけに対し、少女は両手でクイクイと雛を呼びつける。
「遊びに行こう? いいお天気だし」
 外は抜けるような青空に覆われていた。付近の木々に茂る青葉が日光に白く輝く。
「貴方は春先でも元気なのね。秋の神のくせに」
「寒くなかったらいいの」
 少女は両手をいっぱいに広げて、太陽の光を浴びる仕草を見せた。
「で、さっきの話だけど、ちょっと遠出しない? 田んぼとか見に行こうよ」
“遠出”と聞いて、雛の心臓が大きく脈を打った。頬がひんやりと冷たくなっていく。
「せっかくだけど、ごめんね。雛祭りからもうだいぶ経っちゃったし」
 雛は手を後ろに組んだ。指先の震えが止まらない。
「そっか……。じゃ、また今度ね」
 少女はいけないことをしたみたいにきょとんとした表情を浮かべ、それでも笑顔を作り、手を振って帰っていった。
「みっともないところ見られちゃったなあ」
 去りゆく黄色いシャツの背中を眺めながら、雛の意識は徐々に過去へ引き摺られていった。

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 全身がきれいに整った人形たちを、雛は一つずつ丁寧に手提げの編み籠へ詰めていった。どの人形も落ち着き払った表情で、めいめいに網目の隙間を覗いている。青白い階調の空に雛は目を細め、息を胸いっぱいに吸い込んで、緩やかな斜面を下りていった。

 人里は生ぬるい空気に包まれていた。道行く人々は雛にチラリと目線を送り、何事も無かったかのようにすれ違っていく。開いている店は雛が通りかかるとひっそりと静まり、雛の背中で元の活況を取り戻す。
 雛は、回収して厄を抜いた人形をかえすために人里へやって来た。慣れ親しんだ曲がり角を抜ける。その先の通りに、軒先を華やかに着飾った花屋があった。雛は歩みを止めないながらも、決まってその店に顔を向ける。
 店の隅、地面に据えられた大きな鉢植えに咲く白桃色のシャクナゲが雛の目に留まった。細く頼りない幹が雛より少し高いぐらいに伸びていて、てっぺんに生えるしんなりとした花弁が、悔悟棒みたいな葉に囲まれて太陽を仰いでいる。その柔らかそうな花の先に触れようかと、雛は思わず右手を伸ばしかけた。
 その時、雛のつま先が何か固いものに引っかかった。反応が遅れた雛は重心が前のめりになるところ為す術も無く、勢いよく正面に倒れ込んだ。静まり返った街道に砂埃が舞う。籠の中の人形たちがわあっと飛び出す。
「大丈夫?」
 痺れるような膝の痛みを堪えて立ち上がろうとした時、前方から幼な声が聞こえてきた。顔を上げると、年端もいかないおかっぱ頭の女の子が、雛が運んでいた人形の一つを抱えて心配そうな目をしている。雛は膝立ちになってお礼を言おうとした。女の子と目が合った。
「あ」
 首筋を撫でる風がピタリと止んだ。瞬く間に笑みを落っことした女の子は、お化けでも見たような引きつった表情を顔いっぱいに浮かべ、小刻みに震え始めた。雛はどうしたのと手を差し伸べようとした。
「ああああああ! きたない、きたない!」
 すると女の子は堰を切ったように泣き叫び始めた。耳をつんざくような悲鳴に、雛は思わず顔を顰(しか)める。
 騒ぎを聞きつけたのか、路地のあちこちから大人たちが集まってきた。大人たちは雛の姿を見ると怯んだように立ち止まったが、その中の一人が女の子に向かって駆け出すと、間近にいた者たちも同時に大挙して、雛たちを取り囲んだ。
 最初に来た大人は女の子を抱きかかえ、人ごみの外へ消えていった。残りの大人は雛の周りに屯(たむろ)して、荒々しい声色であれやこれやと話し始めた。どの人間も、溝にたまった泥を見るような目で雛を見る。
 雛は、膝を抱えたまま忙しなく左右を見回した。そうしていると、くすんだ着物を纏う女性が群衆の間を割って入ってきた。歯をぎりぎりと噛み締め、顔に皺を寄せ、大きく息を吸い込んだ。
「うちの子になんてことしてくれるのよ!」
 ビリビリと鳴り響く風の震えに、雛は目を点にして呆然と女性を見上げた。女性に合わせて周囲の人々も赤色に沸き立ち、憎しみいっぱいの表情で「この厄介者」「昼間から出歩くな」などと乱暴な言葉を雛にぶつけた。包囲されて逃げ場のない中、雛は手を小刻みに震わせながら、無表情で人々の音を聞いた。
「うわああああ!」
 その時、どこかから青色の悲鳴が聞こえてきた。視線を向けると、紫がかった気体が群衆の一角に絡み付いている。雛は、同じ場所に居過ぎたからだ、と思って顔を下に向けた。手や足の先、胴体から、紫色の粘着質な蒸気が漏れ出していた。
「助けてくれ」「どけ」「やめて」
 人々はもはや雛に目もくれず、我先に逃げようとしているのか、押し合いへし合いで散々にもつれ合った。踏まれた人が「痛い」と叫ぶ。狂ったアヒルが「えんがちょ」「えんがちょ」と騒ぐ。
 ふと、目を背けた先に間隙を見つけた雛は、地面に落ちた人形たちをそっと拾い上げ、静かにその場を去った。

 喧騒が聞こえなくなったところで、雛はようやく肩の力を落とした。左手の籠は行く前と変わらず、人形たちで満たされている。雛は頭上にカラスの声を聞きながら、山へ続く一本道に黒い染みを点々と残し、帰っていった。


 翌日、雛は斜面に寝転がって空を見た。流れゆく綿雲はどこまでも穏やかで、超然とその姿を変えない。ふと、心臓が締め付けられるような痛みに眉を顰(ひそ)める。
「随分と淋しげな日光浴ね」
 何の前触れも無く、視界を覆うようにして赤色の巫女が上空に現れた。雛は目線を逸らして風に揺れる木々を見た。
「今は誰とも話したくないの」
 巫女はふわりと雛の横へ降り立ち、今日の天気を語るように何気ない様子でぽつりと告げた。
「人里に広まった厄は、ひと通りお祓いをしておいたから」
「え」
 雛は起き上がり、口を小さく開いて巫女を見上げた。
「異変があったら解決するのが当然でしょう。ま、応急処置に過ぎないから、最後の後始末はあんたが取ってちょうだい。来年の雛祭りにでもね」
 巫女は素っ気ない表情のまま、言いたいことを終えると腰を下ろして空を見上げ、かと思うと「あ」と声を洩らして再び雛を見た。
「そういえば、どっかの家の子供から、どうしても伝えてほしいと頼まれたわ。『ごめんね』って」
 雛の胸の奥に、お茶を零したような熱が広がる。雛はスカートの裾をぎゅっと握り、震える唇をぐっとこらえて返事をした。
「ありがとう」
 巫女は手を後頭部に回して寝そべった。雛も同じようにして、再び地面に背骨を合わせる。雲はまばらだった。
「あんたさ」
 不意に、巫女が顔をこちらに向けた。
「そんなに苦しい思いをするのなら、厄神なんてやめたらいいのに」
 巫女の言葉が、既にささくれ立っている心臓を突き刺す。雛は目を閉じて痛みをなぞる。するとふとした拍子に、心臓を突き立てていた針がじんわりと融けていった。雛はしっとりと瞼を開き、ゆっくりと巫女に視線を送った。
「それなら、貴方は苦しくなったら巫女をやめるのかしら」
「ありえないわ」
「そうでしょう?」
 雛は緩やかに立ち上がり、「それにね」と言って両手を広げてみせる。
「私の体を作る、この布や木の骨組みから、人間への愛が溢れて止まらないのよ」
 雛は月のように穏やかな気持ちで笑顔を振り撒いた。両目からは涙を流した。
 巫女は起き上がると雛の正面に並び、雛の頬を伝う雫(しずく)を袖の先で拭った。
「困ったときは誰かを頼りなさいよね。神様でも」
 巫女は雛に顔を寄せて呟き、それから背を向けると緩慢な動作で飛び去っていった。雛は手を横に広げたまま、その後姿を見送った。
 巫女が消えると雛は蔵に戻り、昨日運べなかった人形たちを、再び籠に詰めた。

  おわり


『農夫とキツネ』より