アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

行き過ぎた模倣


 何でも真似をする響子にぬえが目をつけた。ぬえは境内に積もった雪を踏み越え、掃除をしている響子に背後から近づき、俄かに叫んだ。
「博麗の巫女は腋出して帰れ!」
「はくれーのみこはわきだしてかえれー」
 響子は晴天に向かって声を飛ばす。それを見たぬえはいやらしい笑みを浮かべつつ、響子の正面に回った。ぼんやりとぬえを見上げる響子を前にして、ぬえは手をパン、と叩いて再び叫んだ。
「博麗の巫女は腋出して帰れ!」
「はくれーのみこはわきだしてかえれー」
 ぬえは喉の奥からくぐもった笑い声を漏らしながら、何度もそれを繰り返した。

   *

 霊夢は人里で茶葉を買った帰りに命蓮寺の前を通りかかった。門前では、くすんだサツマイモみたいな色の服を纏う少女が熱心に雪かきをしていた。その少女は霊夢に気づくと微笑みを浮かべた。
「おはよーございます」
「おはよう。もうすぐお昼よ」
 霊夢は頬にひんやりとした風を感じながら挨拶を返す。その時、どこからか乾いた破裂音が響いてきた。
「はくれーのみこはわきだしてかえれー」
 霊夢は口をあんぐりと開けて少女を見た。少女は首を傾げるばかり。
「あんた、それ意味判って」
 少女に詰問しようと足を踏み出した瞬間、再び破裂音が響く。
「はくれーのみこはわきだしてかえれー」
「あっ、そう! 年中涼しげな恰好で悪かったわね!」
 霊夢はその場で地団太を踏んでから、荒々しい足取りでその場を去ろうとした。その折にまたしても破裂音が木霊する。
「はくれーのみこはわきだしてかえれー」
「今帰ろうとしているでしょ!」
 堪らず少女に振り返る。その時、寺を取り囲む外壁の裏から波のような爆笑が聞こえてきた。霊夢は目ざとくそれを聞きつけ、勢いよく飛び上がり空中から壁の奥を覗き込む。そこには、雪の上で笑い転げる黒服ミニスカートの姿があった。霊夢は黒服にそろりと近づき、お祓い棒を喉元に突きつけた。黒服の笑いがしゃっくりをしたみたいにぴたりと止まる。
「最期に言い残すことはあるかしら」

   *

 庭に出ていた村紗は、ぬえの拍手に合わせて同じことを喋る響子を遠目に見て、大層感心した。ぬえが巫女に退治されるのを一通り見届けてから、村紗は何気ない風を装って響子の前を通りかかった。
「ああ、誰か溺れさせたいなあ」
 やけに声の通った独り言を洩らし、チラリと響子を窺う。
「あー、だれかおぼれさせたいなー」


 それから毎日、村紗は響子に近づいては「ああ、誰か溺れさせたいなあ」と呟いた。そうして、響子が律儀に復唱するのを毎回確認しては、ささやかな達成感に顔を綻ばせるのであった。

   *

 ある日、響子の心に、それまで感じたことの無いようなドス黒い欲求がふつふつと芽生えてきた。
 溺れさせたい。誰かを溺れさせたい。
 そう思うや否や、響子は手に持っていたシャベルを雪の山に放り投げ、駆け足で寺を飛び出した。

 空は晴れているのに、群青の湖は霧が立ち込めていて先が見渡せない。響子は、霧を手で払いながら人影を探した。
 暫く歩いていると、霧の向こうに紅い洋館が見えてきた。屋上に聳(そび)える時計塔が目に留まる。角ばった黒色の長針が、ガタリと音を立てて動いた。
 洋館の方へ寄っていくと、門の前に何者かが横たわっているのを発見した。さらに近づいてみる。濁った池みたいな色合いの中華服を纏う長身の少女が、紅い髪をだらりと垂らして雪の上に寝そべっていた。腹の上に雪が積もっている。
 響子は半ば操られているような意識のまま、その少女の足に手を伸ばした。肉付きの良い足首を手綱のようにしっかりと握り、力いっぱいに少女を引っ張った。少女は決して目を覚ますことなく、雪上に深々と軌跡を残してゆく。
 響子は息を切らしながら少女を引き摺り続け、湖の縁までやって来た。響子は一度手を離し、少女の頭の後ろまでぐるりと回り込んだ。周囲には相変わらず濃い霧が湧き上がっていて、湖はしんと静まり返っている。
 響子は少女の肩に手を掛けた。一呼吸置いてから、その肩をぐぐぐっと押し込む。少女の踵(かかと)が湖面に触れ、次いでふくらはぎが水に浸かる。瞬く間に少女の全身は湖へ沈んでいった。最後に緑の帽子が吸い込まれた時、小さな波紋が広がってから、湖面は元と同じく鏡のように霧を映し始めた。響子は力無く座り込み、少女が沈んだところをぼんやりと眺めた。
「うわああああ! 冷たっ、冷たい!」
 その時、先ほどの少女が勢いよく水面に顔を出し、両手を激しくばたつかせ始めた。それを見た響子は心の底から「わあすごい」と感嘆した。そうして活きのいい溺れっぷりを一心に観察していた響子であったが、口の中に入った水に喉を詰まらせる少女を見ているうちに、心が締め付けられるような痛みを覚えた。響子はとうとう少女に手を差し伸べた。


 終始俯いたままお寺へ帰ってきた響子は、縁側に坐して印を結ぶ白蓮に近づいた。
「あの……」
「どうかしました?」
 消え入りそうな呼び掛けに白蓮は柔和な笑みを返した。

 二人は場所を畳の間に移し、正座をして互いに正対した。普段は何とも思わないザラザラした藺草(いぐさ)の感触が、足の甲に纏わりつく。
「あの、えっと」
 舌が絡まってうまく言葉にできない。白蓮はそんな響子を急かすことなく、和やかな表情でじっと佇む。寺の向こうから往来の声が微かに聞こえる。
 響子はきつく瞬きをした後、喉の奥から声を絞り出した。
「さっき! 人か妖怪かを、その、溺れさせて、えう、しまったんです」
 喋りながら頬が冷たくなる。響子は涙が溢れていることに気づいた。
「うう、やっちゃいけないことだって、判っていたけれど、つい気持ちが、あう、動いちゃって。私って、悪い子」
 響子はそれ以上言葉を続けられず、畳に伏して大粒の涙を流した。泣き叫ぶ声が庭にまで木霊する。
 ふと、響子の掌にじんわりと温かみを感じた。涙が零れるのも構わず顔を上げると、穏やかな表情のままの白蓮が、響子の手をそっと包んでいた。堪らず、響子は白蓮の膝に顔をうずめた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 響子は頭を撫でられ、心が次第にほどけてゆくのを感じながら、誰にも憚ることなく泣き続けた。


 響子は袖で涙を拭き、改めて白蓮の前に正座した。平静を取り戻しつつある胸中には、ピリリと痛くも心地よい刺激を感じる。白蓮は落ち着いた瞳で響子を見つめた。
「よく過ちに気づきました。確かに、その行いは簡単に赦されるものではないかもしれません。けれども大切なのは、まず自らの所業を振り返ること。そして、それを理解した今、貴方がどのように振る舞うかです」
 白蓮の一言一句に響子は深く頷く。
「もう貴方は、これから為すべきことを十全に把握しているのでしょう。さ、お行きなさい」
 白蓮に促され、響子はよろよろとその場に立ち上がり、ふらつきながら部屋を出ていこうとした。
「あ、最後に」
 背中にしっとりとした声が届く。響子は、足を止めて襖の模様を見つめる。
「打ち明けてくれてありがとう。よくがんばりました」
 響子は再び涙が溢れそうになるのを堪え、振り返って白蓮に一礼を送り、部屋を後にした。

   *

 響子が去って風通しの良くなった和室にて、白蓮は徐(おもむろ)に庭先へ顔を向けた。
「岩の影に隠れて見ていたお二人。後で講堂に来てください」
 つるつるに磨き上げられた岩の裏から、「あああ」と湿った溜め息が漏れ出た。

  おわり


『サルと漁師』より