自然に抗う永琳の秘薬
日中の暑さもいよいよ盛りを迎えようとする時期、輝夜は自邸にある診療所の戸をたたいた。 「ああ。家の中を飛び回る虫が鬱陶しくて仕方がないわ」 机に向かって書類をまとめていた永琳は、ただ「分かりました」とだけ返答した。 翌朝、朝食を済ませた輝夜が縁側で朝の陽ざしを浴びていると、永琳がずかずかと庭に入り込んできた。その手には取っ手の付いた木製の桶が握られていた。 「あら永琳。無言で庭に入るなんて不作法だわ」 「いいえ輝夜、許可なく入り込んだのは――。すぐに追い出してあげますわ」 永琳は桶から柄杓を取り出し、桶の中身を掬うと打ち水のように庭へ撒き始めた。透明な液体が円弧を描き、地面に激突して小さな飛沫(しぶき)を上げる。途端に広がるツンとした刺激臭に、輝夜は慌てて口元を覆った。 「ちょっと、この薬は大丈夫なの?」 「これで死ねるのなら本望ではありませんか?」 「冗談にならないわよ」 輝夜の心配をよそに、永琳は粛々と液体を撒き続ける。そうして、永遠亭の周囲にひと通り散布したところでようやく桶の中身が底をついた。 午後になり、輝夜は奇怪な落ち着きの無さを覚えた。この違和感の原因は何なのかと少しばかり思い悩み、虫を追い払う動作を全くしていないからだと気づいた。輝夜の自室は妙なさわやかさに包まれていた。 ふと庭の方を見ると、青緑色の服を纏う一人の妖精が、手を前に組み何とも嬉しそうな表情で庭に佇んでいた。 「妖精さん。迷子かしら?」 輝夜は縁側へ出て妖精に呼び掛けるが、妖精はとろんとした笑顔を返すだけで何もしない。 輝夜は訝しげにその様子を観察した。そうしていると、どこからかもう一人の妖精が庭へ飛び込んできた。その妖精もまた、ふわふわした表情を浮かべていた。 「こらこら。ここは出入り自由じゃないのよ」 妖精たちを追い返そうと、輝夜は地面に足を降ろした。その時、上空からけたたましい羽音が降り注いできた。慌てて見上げると、空を埋め尽くすほどの妖精が庭先目掛けて飛来している。輝夜は大層目を見開いたが、努めて冷静に呟いた。 「ああそうね。妖精は自然の象徴なのよね」 直後、輝夜は大量の妖精に埋もれていった。 おわり 『タカとトンビとハト』より