再来、藍の板挟み
「藍、明日は天狗のところまで行くわ」 藍は紫様の目を見据えて頷いた。 「藍様、明日は遠くへ遊びに行きませんか?」 藍は顔を綻ばせて頷いた。 またしてもこの時がやって来た。藍は月明かりに照らされながら頭を抱えて蹲(うずくま)った。 だが今回は藍の思案がピリリと繋がった。天狗に会うためには妖怪の山へ行く。橙は遠出を望んでいる。なんだ、そのままでいいではないか。 藍は口の端を歪め、雲の端がかかった月を見上げた。 翌日、藍は橙を堂々と引き連れて紫様と合流し、紅葉に色づいた山へ飛んで行った。木々に隠れた奥にある、落ち葉に埋もれた寺に辿りつくと、紫様は「待っていれば来るわ」と平たい石段に腰かけた。藍は紫様の側に侍って周囲を警戒し、橙は後ろ手に境内の落ち葉を軽く蹴った。 暫くすると上空から、白い装束を纏う少女が黒のスカートをはためかせ、太陽を背にふわりと舞い降りてきた。 「やあやあ皆さんお待たせしました」 「どうして貴方が来たのかしら」 「私ですか? 応対役ですけれど」 白装束の少女は紫様を一瞥して石段を駆けのぼり、寺の戸を勢いよく横に流した。 中は広々とした板の間が広がっていて、壁は無く円柱の間から外の草木が見える作りだった。紫様と天狗少女は部屋の中央に向き合って正座し、藍と橙は紫様の斜め後ろにちんまりと座った。 紫様は少女と楽しげにご歓談なさっていた。藍や橙も時折言葉を加えるが、如何せん話の波に乗り切れない。藍は、前方の二人がだんだん遠ざかっていくような気がした。 少しばかり経った頃、右横にいた橙が藍の横腹をツンツンとつついた。 「どうした」 藍は小声で橙に尋ねた。 「退屈です」 橙はとても素直な子だった。藍は紫様たちの様子を窺い、二人が話に夢中なことを確信して、やれやれと懐から小さな箱を取り出した。藍は橙の方に体を向け、その箱をコトリと床に置いて蓋を取った。中には、掌ぐらいの大きさである深緑の厚紙が何枚も積まれていた。橙は一番上の一枚をつまんで裏返してみた。そこには桜の枝と赤短冊が描かれていた。 「花札だよ」 橙は目を輝かせた。 「勝負。猪鹿蝶で五点だな」 藍と橙は互いに向き合い、季節の草花が描かれた札を並べてひそひそと遊んでいた。橙が喜んで小さく拍手をしたり、あからさまに肩を落としたりするのを、藍は頬を緩ませて眺めた。 「藍」 突然、紫様の声が部屋に響いた。花札に気を取られていた藍は慌てて紫様を見た。だが紫様は正面を向いたままだったので、藍は穏やかに息を吐いた。 「天狗への菓子折りを忘れたから、取りに行ってもらえるかしら」 「はいわかりました」 こちらを振り向かないでくれと念じつつ、平静を装って手早く返答した。そうして、立ち上がろうと膝に手を掛けた。 「藍様はいま忙しいですよ?」 思いがけず橙が口を挟んできた。藍は膝立ちのまま驚いて橙を見たが、その表情は真剣そのものだった。藍は再び紫様の方を見た。紫様は完全にこちらを向いていた。藍は顔や手の辺りに急な寒気を覚えた。 「藍」 今度の呼び掛けは冷ややかなものだった。藍はどうすることもできずその場に正座して固まった。紫様の奥に目を遣ると、天狗少女が何やら熱心にメモを取っていた。 「お菓子を持ってきたら一人で帰って、部屋の掃除でもしていなさい」 「はい」 藍はただ返事するばかりだった。 去り際に橙が藍の袖を引き、「ごめんなさい」と囁いた。 「気にするな。今日は紫様の下でたっぷり勉強しなさい」 藍は橙の帽子をさらりと撫で、くるりと部屋に背を向けた。そして、努めて気丈な背筋で出口へと歩いていった。 敷居を跨ごうとしたとき、藍の背後で微かな呟きが聞こえた。 「懲りない子ね」 「そうですね」 おわり 『父親と二人の娘』より