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自虐的破壊衝動


「ちょっと気晴らししてみない?」
 蝋燭の明かりが闇に吸い込まれる地下の一室で、てゐがフランに投げかけたのはそんな一言だった。色の無い瞳でてゐを見つめるフランをよそに、てゐは小さな円いテーブルに置かれた透明なワイングラスを見た。
「どうにも気持ちがもやもやするときはね、こうするんだよ」
 てゐはグラスの足を右手で掴み、腕を振り上げ、思いっきり地面に叩きつけた。甲高い破裂音とともに、宝石みたいにきらきらした欠片が辺りに飛び散った。
「さ、やってごらん」
 てゐは床の破片に見向きもせず、もう一本のグラスを指差した。フランは初めじっとしていたが、てゐに何度も唆され、とうとう一歩前へ出てきた。それから左手を前に出し、手首をクイッと動かして掌を閉じた。その途端に目の前のグラスはビキビキと網目状に割れ、辺り一面に破片を撒き散らして落ちた。
「綺麗ね、フラン」
 てゐのゆったりとした拍手が壁に響いた。

 次の日も、またその次の日も、てゐは紅魔館に忍び込んだ。そうしてフランに、部屋の物を少しずつ壊させた。
「あーあ、大事な大事な椅子も壊しちゃった。これ手作りでしょう? 誰に貰ったのかしら」
 てゐは細くしなやかな木の棒を拾い上げて、瓦礫が小さく積まれた部屋の端へそれを重ねた。
「あれもこれも全部壊れちゃう。けれどもそれが堪らなく愛おしい。そうでしょう?」
 てゐはフランに歩み寄り、つやつやの赤い唇を指でなぞった。フランはぼんやりした目つきのまま、蝋燭にうっすらと映るてゐに寄り添った。


 十六夜咲夜は頭の中の予定表を辿った。廊下は掃除した。大部屋の掃除もした。門番は叩き起こした。後は、あ、今日は土曜日だから。
 窓の外を覆う灰色の雲に目を遣ってから、咲夜は静かな足取りで階段を降りた。

 他の部屋より分厚い木の扉を四回叩き、扉の奥目掛けて「失礼します」と声を通してから、咲夜は銀色のドアノブに手をかけた。ひんやりとした感触が掌に抉り込んだ。
 部屋の中央ではフランが背を向けた格好で紅の絨毯に坐していた。眠りこけたように動きが止まっていた。咲夜はふと違和感に突かれて隣のテーブルに目を遣った。テーブルに備え付けられていた椅子は全て無くなっていた。
 うっかり入り口に突っ立っていた咲夜だったが、とにかく掃除をしなければならないと我に返り、部屋の中へ足を踏み入れた。その瞬間、フランが腰を捻って咲夜に振り向いた。
「咲夜。なんだか心が涼しくて気持ちいいわ」
 フランは流れるような動きで立ち上がり、ひたひたと咲夜に近寄って、倒れ込むようにして咲夜の前掛けに絡み付いた。何事かと咲夜が見下ろすと、とろんとした目が咲夜を捉えていた。咲夜が暫く固まっているとフランは左手を真横に伸ばし、空気をぎゅっと握り締めた。鈍い金属音が部屋に響き、咲夜のスカートから破片がぱらぱらと床に落ちた。咲夜がスカートの上から太腿の辺りを手で確かめると、あるはずのナイフが跡形も無く消え失せていた。
「壊れちゃったね」
 フランは咲夜から手を離して地面にぺたりと座り込み、床に落ちた銀色の欠片を宝物のように拾い上げた。
「怪我をなさってはいけませんわ」
 咲夜はその場に屈み込んで、破片を集めようとするフランを制止しようとした。そのとき、フランの目がぎょろりと咲夜を見た。
「咲夜。あなたの清らかな服装はとても好きよ」
 フランは持っていた破片を床に流して立ち上がり、両手で咲夜の両頬にそっと触れた。冷たい感触に咲夜はビクリと肩を震わせたが、何ともない表情を装ってフランと目を合わせた。フランの指先は咲夜の耳元を上に辿り、頭につけた純白のカチューシャまで来ると手の動きを止めた。
「よく見ていて」
 フランは両手を離し、左の掌を咲夜に差し出した。そうして、細く白い指を静かに畳んだ。すると微かな亀裂音と共に、薄暗い部屋に白妙(しろたえ)の破片が雪のように舞った。咲夜は頭をポンポンと確かめた。空気をかすめた後に髪の毛に触れた。咲夜は風通しの良い頭部に傷心を覚えながら、空中に舞う粒みたいな布きれを一つつまんで手に取った。その端にはほつれた糸がくっついていた。
 咲夜は立ち上がり、前掛けに入れていた雑巾を取り出してずいずいとテーブルに向かった。無心でテーブルをごしごしと拭いている間、隣に座り込んでいるフランは
「痛いね、ごめんね」
と布の断片を集めていた。咲夜はフランから目を背けつつ、部屋の掃除を続けた。
 暫くは床で大人しくしていたフランだったが、おもむろに立ち上がって部屋の奥へ歩いていった。フランの動きが気になった咲夜はその先にある焦げ茶色の棚に目を向けた。その棚の上には白くてふわふわしたウサギのぬいぐるみが置かれていた。フランがとても大切にしているものだった。
「ウサギさん、あなたも?」
 フランはウサギに目線を合わせてぽつりと語りかけた。次の瞬間、フランはウサギ目掛けて左手を翳した。咲夜はそれに驚いて反射的に懐中時計を握った。フランは手を伸ばしたまま石のように固まった。周囲を見回し、時間の停止を確かめた咲夜は溢れ出る汗を手拭いで拭き取った。
 止まったままのフランの正面に回った。フランは能面でウサギを見つめていたが、その瞳は潤んでいた。咲夜は、ああ自分がやったことは間違いじゃなかったと安堵して、同時に心臓がちくちくと痛んだ。それから、フランを持ち上げて部屋の中央に戻し、左手を下げさせて、懐中時計を再び握った。
「え」
 ウサギが急に遠ざかったフランはぽかんと口を開いた。その反応を見た咲夜はフランをきつく抱き締めた。二人の間に交わす言葉は無かった。それでも、咲夜は右肩がじんわりと湿ってゆくのを感じて、腕の力を強めた。


 翌日、薄い桃色のワンピースを着たてゐが慣れた様子でやってきた。
「あれ? 随分と部屋が片付いちゃったじゃない」
 てゐは瓦礫が積まれていた方を見ながら軽妙な口調で問いかけたが、寝台の上に座るフランは体を背けた。
「それじゃあ、またイチから始めましょうよ。大事なものを」
「もう聞きたくないわ」
 フランは静かな声を響かせててゐを遮った。すると、てゐはあからさまにばつの悪そうな表情を見せてフランににじり寄った。
「どうして? 昨日まではあんなに乗り気だったのに?
 わかった。ここの住人に何か言われたんでしょ。ああがっかりだわ、私の言うことを聞けばあんたはもっと輝けるのに。この臆病者!」
 てゐはフランの両肩を掴んで怒鳴り散らした。だがてゐの目は後ろめたそうにしていた。
「その話をするなら帰って」
 フランは冷静にてゐの手を払った。てゐは床を思いっきり踏んでから、服の皺を直して、フランに背を向けて扉へ歩いていった。そうしててゐがドアノブに手を駆けようとしたときだった。
「気が変わったら、また来て」
 てゐは伸ばした手をピクリと止め、首を動かして横目でフランを見た。それから顔を再び正面に戻し、音を立てず扉を開いて、すたすたと地下の闇に消えていった。

  おわり


『ヒツジ飼とオオカミ』より