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衣玖の触角


 天子はうんざりした。天子が地上へ遊びに行く度に衣玖がやって来て、「勝手に地震を起こしてはいけないですから」と天子を連れ戻した。
 何とかならないものかと考えを巡らせた。あるとき、衣玖の黒い帽子に巻かれている赤いリボンが何やらうねうねと動いていることに気づいた。天子は口の端を歪めた。

 まだ太陽が昇り切らない頃、天子は衣玖の寝床へ忍び込んだ。衣玖の目元を確かめてから、立てかけてあった帽子を手に取った。芯の通っているしっかりとした作りだった。天子は、その帽子に付いたリボンの端をつまみ、するすると引っ張った。リボンはいとも簡単に木の床へ抜け落ちた。天子はそれを衣嚢に押し込め、部屋を後にした。
 天子は近くの茂みに隠れ、衣玖が出てくるのを待った。すると、扉が開く金属音が響き、薄い桃色の羽衣をひらひらと身に纏う青髪の女性がぬっと姿を現した。
「衣玖だ」
 衣玖は足元が何とも覚束ない様子だった。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、そんなことを繰り返しながらどこかへと消えていった。あまりに頼りない後姿に天子は少し罪悪感を覚えたが、「今日だけはごめん」と心の中で念じてその場を去った。

 天子はのびのびと当ても無く人里を歩き回った。澄み切った青空を見上げて、上空を飛ぶ小鳥たちに思いを馳せて、天子は気ままなひと時を存分に味わった。
 だが、十字路を左に曲がろうとしたところで天子は何者かに右腕を掴まれた。
「総領娘様、やっと会えましたね」
 振り向くと、息絶え絶えの衣玖が膝立ちで天子に凭れかかってきた。薄目を開けて呻くので、天子は青ざめて何の抵抗もできなかった。

 それからと言うものの衣玖は一層神出鬼没になり、天子は今まで以上に気を揉まなければならなくなった。少しでも油断すると、どこからともなく衣玖が現れて天子の体を掴んだ。
「分かったわ。私の負け」
 一週間連続で捕獲された天子は正面から抱きつく衣玖にそう言って、衣玖の黒帽子にリボンを巻いてあげた。
「わあ、総領娘様から贈り物を頂くなんて」
 しかし、リボンをつけても衣玖の調子はふわふわしたままで一向に戻らない。天子はある疑いをもって衣玖に顔を近づけた。アルコールの匂いが鼻を突いた。

  おわり


『後家と小間使い』より