穏やかな冥界の鍵
妖夢は朝起きると広大な庭の世話をして、時折訪れる不埒な幽霊を片付け、庭が整うと今度は外の管理をして、そうしているとあっという間に一日が終わった。 ある日、妖夢は庭先で背の高い木を剪定していた。眩しい日光に照らされ汗を拭い、ふと地上を見ると主の幽々子様がのんびりとお茶を啜っていた。妖夢はたいそう涼しそうだなと思いつつ、業務を続けた。 暫く作業をして葉の形が整ったと判断した妖夢は、葉の断片が積もり緑に染まった地面へ降り立ち、距離を取って木々を見た。それらは皆、妖夢の手によってすらりとした見栄えになっていた。妖夢は誇らしげに頷き、次の作業のために庭を出ようとした。その矢先、縁側から甘ったるい声がかけられた。 「妖夢。ちょっとお茶汲んでくれる?」 「はいただいま」 妖夢は反射的に返答すると素早く台所へ向かった。慣れた手つきで急須に茶葉を入れ、程よく冷ましたお湯を加え、軽く蒸らしてから幽々子様のところへ持っていった。 縁側に座る幽々子様の横で膝をつき、静かにお茶を湯呑みに注いだ。幽々子様は上品に微笑んで湯呑みを受け取った。そんな様子を見て、妖夢はふと気になったことを口に出した。 「幽々子様、今日のご予定は?」 幽々子様は青空をぼんやりと見上げながら答えた。 「どうしましょうかね」 幽々子様につられて思わず妖夢もぼうっとしてしまいそうになったが、その怠惰を振り切って妖夢は席を立った。 次の日も、またその次の日も、妖夢が見る幽々子様はいつものほほんとした有様であった。 ある時、妖夢がいそいそと庭を横切ろうとすると縁側の幽々子様に呼び止められた。 「妖夢、濃茶に合うお菓子を取って来てくれるかしら」 そう仰る幽々子様の手元にはお盆があり、食べかすの付いた白い源氏紙が載っていた。妖夢は頭に血が上って、思いがけず幽々子様に詰め寄った。 「仕事はなさらないんですか」 「しているわよ?」 幽々子様は口元に扇子を当て微笑んだ。それを見た妖夢は拳をぎゅっと握り締めた。 「いいです。一日中ぽーっとなさるのでしたらそれも結構です。 けれども私は、今後幽々子様のお世話はいたしません」 妖夢が語気を強めて迫る。幽々子様は目を丸くして仰け反った。その反応を見た妖夢は少し心が締め付けられたが、構わず背を向け庭を後にした。 幽々子様は白玉楼から姿を消した。妖夢は残念に思った。そうして誰にも見守られることなく仕事をがんばった。 何日かすると、冥界が少し賑やかになっていることに気付いた。よく観察すると、冥界に漂う幽霊の数が明らかに増えていた。妖夢は覚悟を決め、幽霊の管理に取り掛かった。だが雑多で予測不能な霊たちを取りまとめるのは、どうしても妖夢の手に余った。庭の世話、屋敷の管理、幽霊の世話――、妖夢は頭の中がこんがらがって庭先に倒れた。 「ただいまー」 そのとき、玄関の辺りから悠長な声が聞こえた。妖夢は倒れたまま顔だけをその方へ向けると、鮮やかな水色の着物を纏う幽々子様が幽霊たちを侍らせていた。幽々子様と目が合った。幽々子様は妖夢を見てはっとした表情を浮かべ、着物が乱れるのにも構わず妖夢に駆け寄った。 「ごめんね妖夢。私が大人げなかったわ」 幽々子様は柔らかい声で妖夢を包み、伏せている妖夢の頭を優しく撫でた。妖夢は幽々子様への恨みなど疾うに消え失せ、くすぐったい気持ちで微笑んだ。 それから幽々子様はその場にふわりと飛び上がり、広大な冥界の土地へ向かって扇子を翻した。その途端、あれだけ混雑していた幽霊たちが瞬く間に整序されていった。妖夢も起き上がり、霊が静まってゆく光景に目を奪われた。 ひと通り幽霊の動きを見届けた幽々子様は、息を細く吐きながら庭に降りた。妖夢は、ぱたぱたと台所へ向かった。 おわり 『腹とその他の部分』より