紫立ちたる雛の野望
春のあけぼの、次第に白みがかってゆく山頂、その麓にて鍵山雛は既に目を覚ましていた。 先月に雛流しを終え、雛の体の中では千切れ雲のような厄が少し漂っているだけだった。 色が薄くなりつつある空を眺めた。穏やかに澄み渡っていた。雛は決心した。今年は幻想郷全ての厄を集めてやろうと。 来る日も来る日も、雛は山のあちこちに行ってはくるくると回り続けた。雛が回る度に、目に見えない埃のような厄があちこちから集まる。それらは、雛の腋の下などからするりと体内へと吸い込まれていった。 何日も積極的に厄を集めようとしたものだから、当然の帰結として大量の厄が急速に雛の下へ集まった。厄を原動力としている雛と言えども、あまりに勢いよく増えすぎたために厄の消化不良を起こし始めていた。 ある日、山の中腹で機敏に回転していると次第に視野が霞み始めた。雛は、はっきりと現れた体の変調に驚いた。けれども、これも大願成就への試練だと信じ、厄集めを続けた。 暫くして足元がふらつき始めた。視界が曇っている雛は自分がどこへ向かっているのか把握できなくなったが、それでもまだ回転を止めなかった。 そのとき、ぐらついた足場に踏み込み雛は重心を大きく崩した。踏ん張ろうとしたがどうにも力が入らず、そのまま為す術も無く目の前に倒れ込んだ。地面にぶつかる、と歯を食いしばった瞬間、雛の額に冷ややかな水が触れた。間髪入れず、雛は横転するような恰好で、激しく水飛沫を上げて水場に沈んだ。 雛はそのまま仰向けに浮かび上がった。ぼんやりとした空が目に映った。自分が流されていることから、ここが川であると理解した。試しに両手を広げてみたが、岸辺には届かなかった。 「おーい」 自分が飛び込んだのと反対側から声が聞こえた。雛は振り向く気力も無かったので、空を見上げたままとりあえず手を振ってみた。すると、雛の体は纏わりつく何かに捕えられた。 岸辺に引き摺り上げられたとき、雛は自分が網に掛けられていたのだと分かった。 「大丈夫?」 雛はようやく声の主を見た。緑色の帽子を被り、薄汚れた青の作業着を纏う少女が真上から不思議そうに雛を覗いていた。 雛は淡々と事情を離した。すると、少女は軽快に笑い声を上げた。 「そりゃあ結構なこと。 けれども私らとしては、普通にしてもらうのが一番助かるんだけどなあ」 少女は寝そべっている雛の頭を調子よくポンポンと叩き、後ろ手を振りながら去っていった。直後、少女は石に躓いて盛大に川へ飛び込んだ。 おわり 『天文学者』より