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雪辱を果たさんとするヤマメ


 ヤマメは巣に張り付き、仰向けになって地底の岩肌を眺めながら地上のことを考えた。人里近くのお寺が頭に浮かんだ。ヤマメはまだ、命蓮寺への欲を捨て切れていなかった。
 ヤマメは目を閉じさらに深く考えた。
 あのお寺は人間と妖怪の共生を望んでいる。そのためにはお互いがお互いを助けなければならない。すなわち、人助けをする妖怪は受け入れられる?
 ヤマメははっと目を開いた。居ても立ってもいられなくなったヤマメは巣から飛び上がり、壁を蹴って地上へと飛び出した。


 人里に着くや否や、ヤマメは通りの中央まで走っていった。それから落ちていた木の板を拾い、筆で何やら書きつけて両手に掲げた。
『困っている方、お助けします』
 人々は土蜘蛛が里のど真ん中で飛び跳ねているのを見て仰天した。程無くして、ヤマメはあっけなく人里を追い出された。

 森の付近まで逃げてきたヤマメは草地に座り込み、肩を落として地面を見つめた。だが少しすると顔を上げ、息が混じった声で呟いた。
「ま、悔やんでもしょうがないか」
 ヤマメは腕を組み、次なる策を考え始めた。けれども一向によい案が浮かばない。そもそも、人間が何を望んでいるのかが全くわからなかった。
 ヤマメは膝をついてふわりと立ち上がった。そしてもう一度、人里の方角を見据えた。


 今度はこっそり人里に立ち入った。気持ちだけはここの住人のつもりで、ぶらつきながら人々を観察することに決めたのだ。通り行く人は明らかに疑いの目を投げかけていたが、はっきりとした拒絶の行動は取らなかった。ヤマメは自分に対する周囲の反応が気になって仕方がなかったが、それでもできる限り人と目を合わせないように心がけた。
 暫く歩いていると、頭にぴんと立つ白い耳を生やした何者かが人々とやり取りしているのを発見した。ヤマメは、妖怪と思しき者が何食わぬ顔で人間と関わっていることに驚いた。
 とりあえずヤマメは少し離れたところで立ち止まり、その様子を眺めた。耳の者は、何か白い袋を人間に渡していた。人間はそれを両手で恭しく受け取った。周りの者は微笑んでいた。非常に和やかな雰囲気だった。
 これを見たヤマメ、頭の中で思案が繋がった。ヤマメはいそいそと人里の出口へ向かった。

 ヤマメは人里と外を結ぶ道に立った。そこで待っていると、先ほど見た耳の者が通りかかった。ヤマメは笑顔で耳の者に駆け寄った。
「あれを少し分けてくれないかい?」
 耳の者はヤマメの全身をじろじろと見て、訝しげな表情を浮かべた。それでも純白な紙の袋を取り出し、「どうぞ」と手渡し去っていった。
 去り際にヤマメが尋ねた。「これなんて名前?」
 耳の者が振り向いて答えた。「風邪薬です」

 耳の者の姿が消えたのを見計らって、ヤマメはまず袋の中を見た。中には茶色い粒状の物が詰まっていた。ヤマメはそれを手に取ろうとしたが、非常にまずい予感が脳を衝いたので、伸ばした指を寸前で止めた。ヤマメは袋を閉じ、それを片手に再び人里へ足を踏み入れた。
 ヤマメは大きい建物を選んで近づき、軽快に戸を叩いた。
「誰だ?」 戸の奥から声がした。
 ヤマメは答えた。「風邪薬の者です」
 一瞬の間の後、ザラリと戸が開いた。戸の向かいには、銀髪で藍色の服を着た、ヤマメと同じぐらいの背丈である少女が眉を顰めていた。
 ヤマメは袋を持つ右手を突き出した。「風邪薬ですよ」
 銀髪の少女は一度首を捻ったが、「ああそれはどうも」と言って袋に手を伸ばした。その時ヤマメが言葉を加えた。「助かった?」
 銀髪は苦笑を浮かべた。「助かったよ」
 ヤマメはそれを聞くと目を輝かせ、軽やかな足取りでその場を離れた。


 人里を出たヤマメは、一仕事を終えたみたいにぐぐぐっと背伸びをした。続いてヤマメはさっそくお寺に行こうとしたが、踏みとどまって、妖怪の山へと針路を変えた。
 山は赤と黄色の紅葉に満たされていた。ヤマメは、服に紅葉の色が移ってしまうのではないかと気にしながら、辺りを見回しつつ山道を進んだ。
 幾分か進んだところで、紅葉に溶けそうな黄色い上着に羊羹色のスカートを纏う後姿を発見した。ヤマメは「おーい」と声をかけながらその少女の下へ駆け寄った。声に気付いて少女が振り向いた。ヤマメは、少女の赤い帽子に付いた鮮やかな葡萄に目を奪われた。
「あのさ、相談があるんだけど」
 手を伸ばせば相手の肩に届くぐらいの距離まで近づいて、ヤマメが話を切り出した。少女は首を傾げた。
「あんたのサツマイモとかをさ、ちょっとでいいから分けてもらえると嬉しいなあ」
 ヤマメは満面の笑みを浮かべて頼み込んだ。少女は「まあいいけど」と承諾して、秋の味覚を手提げの籠に詰めて渡した。ヤマメは少女に手を振って山を後にした。

 ヤマメはまたしても人里に戻ってきた。それから、小さな民家を回って食べ物を配り歩いた。行く先々で、ヤマメは家の人に歓迎された。特に、襤褸を着た人間は涙を流してヤマメを受け入れるので、初めて見た人間の反応にヤマメの心がざわざわと波立った。


 編み籠はすっかり空になった。それを持って、ヤマメは命蓮寺の境内に踏み込んだ。西日がヤマメの横顔を強く差した。
 本堂の前で佇んでいると、中から黒服の僧侶がぱたぱたと石段を下りてきた。その姿を見たヤマメはどきりとして、口を震わせながらも、はっきりとした声を発した。
「入門したいです」
 僧侶はヤマメの正面に立ち、長い髪を風に靡かせながら返答した。
「それは、人間と共に暮らしたいと受け取ってよいのかしら」
 ヤマメは一瞬目線を右に逸らしたが、再び前を見据えるとぎこちなく頷いた。間髪入れず、ヤマメは言葉を重ねた。
「ここに来るまでちゃんと人助けをしたんだから」
「何をしたのですか?」
「風邪薬をあげた」
 僧侶は目を丸くした。「あなたが?」
「食べ物だってあげたんだよ」
 僧侶は口を結んで、ヤマメの顔を見つめた。ヤマメは思わず目を泳がせた。
 少しの沈黙を挟んで、僧侶はヤマメを見つめたまま問いかけた。
「それはあなたのものだったのですか?」
 ヤマメは目線を下に向けた。灰色の石畳が目に映った。
「いや、元は、人からもらったものだけど」
 僧侶は凛とした声で問いかけた。
「今一度確かめます。あなたは、自分の力で、どんな理想を叶えたいのですか?」
 ヤマメはそろりと僧侶の顔を見た。僧侶はじっとヤマメを見据えて離さなかった。ヤマメは口の中で舌を転がしながら考えを巡らせ、それでもどうにもならないので、奈落に足を踏み込む気持ちで口を開いた。
「その、寺の人間を、ちょっと獲物にしたいかな、なんて」
 ヤマメは頭を掻きながらニヤニヤと僧侶の方を向いた。しかし僧侶が真顔のまま何も喋らないので、ヤマメも真剣な眼差しでこたえた。
 居心地の悪い静寂が境内を包んだ。ヤマメは居ても立ってもいられなくなり、
「ごめんなさい」
と、石畳の汚れがよく見えるぐらい深く頭を下げた。自分の行いがひどく情けなく思えて、目をぎゅっと閉じ、身を震わせた。
「顔を上げなさいな」
 頭上から柔らかな声がかけられた。恐る恐る上体を戻すと、先ほどまで厳しい面持ちだった僧侶が微笑みを浮かべていた。
「あなたの、その素直なところはとても素敵だと思います。
 考えが変わったらまたいらっしゃい」
 僧侶はそう言うと、数珠をヤマメの掌に乗せた。ヤマメはじゃらりと音がするそれを見た。吸い込まれそうな濃い茶色が連なっていた。ヤマメは無言で一礼を送り、数珠を手に取って見つめながら寺を去った。

 地底への帰り際、ヤマメがぽつりと呟いた。
「これなんだ?」

  おわり


『虚飾で彩られたカラス』より