アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

捨てられた土蜘蛛


「キスメ。そんなところにぶら下がって提灯の真似でもしているのかい?」
 岩肌が剥き出しの縦穴は地下の深くへ続いている。その途中にくり抜かれた窪地の天井に、大きな桶が吊り下がっていた。帯のような黒い金具が暗闇に光る。
「何かあるんだったら軽く言ってごらんよ」
 埃混じりのひんやりした空気の中、ヤマメはうっすらと歯を覗かせた。キスメはヤマメに横顔を向けたまま桶の中でじっと佇んでいたが、ふと、揺れるように正面を向いた。
「あ」
 ヤマメはすぐさまキスメの頭部に注目した。普段なら元結(もとゆい)で髪を垂れ耳のように縛っているのだが、この日ばかりはその片方が欠けていた。
「もしかして、失くしちゃった?」
 キスメは桶の縁を握り締め、こくと頷いた。縛っていない方の髪がキスメの頬にしな垂れる。
 見通しの悪いおかげでただでさえ失くし物が多いこの地底で、針金のような元結を落としてしまえば取り戻すのは困難を極める。けれどもヤマメは、明かりがついたような笑みを浮かべてみせた。
「よし、一緒に探すよ。ほら早く!」


 地下世界に棲みついたヤマメは、いつしか地底の人気者になっていた。陰気な妖怪や粗暴な鬼ばかりの界隈でヤマメのように淀みの無い空気を漂わせる者は、地底のどこを探しても見当たらない。朽ちた街道を歩けば軒先から声を掛けられ、暗がりの空中を旋回すれば漂う妖怪に明かりを灯される。ヤマメは、自分をこんなにも快く受け入れてくれる地底をたいそう居心地良く感じ、また地底の仲間を愛おしく思っていた。
 だからこそ、集落を離れて一人になった時、ヤマメは死んだように頬を垂らした。
「ああ……涼しいなあ」
 自らが拵えた蜘蛛の巣に辿りついたヤマメはその上に寝そべり、縦穴の向こうを見上げた。ヤマメの四方は墨を零したような闇に包まれていて、ややもすると上下の感覚を失いそうになり、事実として稀に巣から転げ落ちることもあった。
 ヤマメが見つめるその向こうは地上へと続いている。地上の光は一滴としてヤマメに届かない。地底に落ちたヤマメにとって青と緑の風景はあまりにも遠い。昨日より少し肌寒くなった風に、ヤマメはひっそりと頬を濡らした。
 思い出すのはいつも、人間たちに追われる光景だった。うっかり人間の住処(すみか)に足を踏み入れてしまったヤマメは、自身の持つ性質から、気がついた時には既に多くの人々を病に陥れていた。病魔の根源を突き止めた人間たちは、鋭く光る得物をもってヤマメに襲いかかった。喉から絞り出したヤマメの弁解は錘(おもり)のように足元へ零れ落ちた。
 その次には、高下駄の妖怪連中に弾き出されて山を転げ落ちる様子が頭に浮かんだ。人里から逃げ出したヤマメは妖怪たちが集う山に安住の地を求めた。だが、自然を汚すヤマメは山の妖怪にも受け入れられなかった。ヤマメはもはや地上には居られなかった。辿りついた先はぽっかりと開いた洞窟だった。
「日光って眩しかったかな。空気っておいしかったのかな」
 ヤマメは息を吐くように言葉を洩らす。けれども次の瞬間には首を大袈裟に振った。
「いやいや、いや、地上なんて欲にまみれた人間と穢れた妖怪の集まりだよ。あんなところにいたら心が腐ってしまう」
 語気を強めれば強めるほど、ヤマメの胸がちくりと痛んだ。


 ある時、箒に跨った黒い魔法使いが来たのは突然のことだった。縦穴を真っ逆さまに落ちていくキスメを見て、ヤマメはまた酔狂がやって来たなと身を起こした。
「やあやあちょっと待ちなよ。お祭り気分でどこに行く?」
「あん? 私はこれでも急いでいるんだが」
「あんた人間だね。地底を荒らすつもりなら帰ってもらおうか」
 言い終える前に、ヤマメは縦穴を塞ぐようにして糸を張り巡らした。魔法使いは眉を吊り上げ、固形物を握った右手をヤマメへ真っ直ぐに構える。対するヤマメは糸の上に一本足で立ち、両手に力を込めて相手の挙動を窺う。
「なあ。私の気まぐれで一つだけ尋ねるが、なぜすんなりと通してくれないんだ? 別に危害を加えに来たわけじゃないんだ」
「それはあんたが人間だからさ」
「人間? ……ああ、人間と妖怪の対立関係を未だに守っているのか。ご苦労なこった」
 予想外の言葉にヤマメは思わず目を点にして彼女を見上げた。
「どういうこと?」
「あのなあ。地下にずーっと籠っていたお前には判らないだろうが、気の合うやつなら人間も妖怪も関係の無い時代になったんだよ。妖怪を見かけたら何でもかんでも敵対するなんて、そんなの物好きしかやっていないぜ」
 魔法使いの傍に漂う物体から、「そうよ」とくぐもった声が響いた。ヤマメはただ唖然として思考を奪われるばかりだった。
「だから通してくれないか。それでな、お前もたまには外に出ろ」
 魔法使いはヤマメにふわりと近づき、軽快にヤマメの肩を叩き、すぐさま弾丸のような軌道で地下深くへ飛んで行った。

 ヤマメは少しばかり口をだらしなく開けていたが、肩に残る感触に意識を引き戻され、魔法使いが去った方へ目を遣った。自慢の網はいとも簡単に破られ、千切れた糸がそこらに垂れ下がっている。
 ヤマメは散らばった糸を丁寧に片付けた。そうして、周りに誰もいないのを確かめると大きく息を吸い込み、揺れるような動きで暗闇を上へ辿っていった。

  おわり


『キツネとブドウ』より