アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

噂に与るあの妖怪


 山の麓の雑木林を越えた瞬間、穣子はピタリと固まった。前方の岩場に、金髪をおだんごに纏めた少女が腰かけていた。穣子は知っている。あの少女が、ありとあらゆる環境を破壊する極悪非道の妖怪変化であると。そう聞いたことがあった。
「ん?」
 ゆらり、少女の首がこちらに向いた。蜜柑色の瞳が穣子を捉える。穣子は少女に釘付けになって、首筋がやけに涼しくなって、頭が真っ白に濁った。
「あんた誰?」
 少女は身軽な動きで跳ね上がり、地面に降り立った。土色の丈長スカートが蕾のように膨らむ。穣子は肩を思いきり震わせて、すぐさま背を向けると脇目も振らず走り去った。

 翌日、田園へ下りた穣子は照りつける夏の日差しに汗を流しながら、日増しに伸びていく稲へ声を掛けて回った。そうしているうちに陽が傾き、穣子の手は茜色に染まった。田と田の間に挟まれた小径(こみち)を山の方へ歩いていく。そうして山の入り口まで辿りついた時、木の向こうに人影を見つけた。そっと裏へ回ると、それはまさしく昨日の少女だった。穣子は思わず息を呑み、隣の木に隠れて様子を窺うことにした。少女は幹に背を預け、橙(だいだい)の空をじっと仰いでいる。夕闇に紛れて少女の表情は判別できない。穣子は、噂とは裏腹に少女が何の悪さもしていないことに静かな驚きを覚え、恐る恐る近づいた。
「そこで何をしているの」
「ん? ああ、昨日の」
 少女はそれきり、再び空を見上げた。穣子はそれ以上何を尋ねるわけでもなく、ただ少女の横に並び、空を見上げた。空の低いところを漂う雲は灰色の影を作り、高いところの雲は夕日に照らされて赤々と輝いている。夕暮れの空は二層に分かれている。
「ねえ」
「何?」
「綺麗だね、地上の空は」
「そうね」
 遠くでは暮れ時の蝉が淋しげな声を轟かせていた。

 あるとき山道を歩いていると、茂みの上で寝そべっているおだんごの少女を見つけた。森林浴のつもりだろうか。穣子はまっすぐに近づきながら、さて今日はどこへ連れ出してやろうかと算段を立てた。

  おわり


『キツネとライオン』より