さとりという種族
古明地さとりを惑わせるのは造作もない。 お空(くう)がさとりの部屋へ入る。さとりは、お空が間食を要求していることと、鴉たちとの付き合いに若干の辟易を覚えていることに気づく。これもさとりの心を読む力があってこそである。さとりは優しいので、お空を台所へ招いて焼き菓子を作ってあげる。お空は、この地底にあって能天気な笑顔をさとりに見せる。二人は食卓に向かい合い、あれやこれやと取りとめのない話をする。最近たまに寝付けない日があること、核融合の制御が徐々に上達していること、巫女が時折はお茶を恵んでくれること、どれも心を読んで予め把握していることなのだが、さとりはいつも新鮮な反応を見せる。お空は決まって底が抜けたような話を繰り広げるのだが、稀に、深刻な悩みを混ぜてくることがある。さとりはそういった相談を受けるたび、知らない間に成長したものだと驚かされる。 必然通りかかったお燐が台所のさとりを見とめ、ふらりと立ち寄ってくる。さとりは簡単な挨拶を交わしつつ、お燐のそわそわした心を見て、さては何か企んでいるなと感じ取る。だがさとりは敢えて何も知らないように振る舞う。お燐は緋色の三つ編みを前後に揺らしながら、さとりの背後をそっと通り過ぎようとする。奥には氷の張った樽があり、地底湖で獲れた二、三匹の小魚が締められている。さとりは正面を向いたまま、第三の目でお燐を窺う。案の定、お燐の頭は魚の色で一杯になっている。さとりはいたずらっ子を見ると放っておけない。さとりは口の端を歪め、静かに席を立ってお燐の背後に迫る。お燐は樽を覗くのに夢中でさとりに気づく気配も無い。さとりはびっくりさせてやろうと、両手を構えて思いきり息を吸い込む。その時、目覚まし時計を極限まで生き物に似せたような騒音が耳元で鳴り響き、さとりは息を詰まらせて激しく咳き込む。振り向けばお空が両手をばたつかせ、わあーっわあーっと騒ぎ立てている。珍しく鳴き癖が出たものだと頭では理解しているものの、予想だにしなかった叫びにさとりはパチパチと瞬きを繰り返す。その隙にお燐が生魚を咥えて走り去る。気づいた時にはもうお燐は遥か彼方、さとりはお燐の去った方へ手を伸ばし、あうあうと呻くだけである。 お空がおしゃれな靴を履きたいと言い出した。普段、お空はかわいらしい茶色の革靴を左足に身に着けている。だが右足は鉄の塊である。そもそも左足にだって電子が絡み付いていて、その辺の靴を安易に勧めることも叶わない。さとりはそれはかわいそうねと呟いたのち、ちょっと散歩に出かけるわと家を飛び出す。 いつしか日光に照らされるのを嫌うようになったさとりだが、今日は構わず地上へ出て一直線に森を訪れる。さとりは、瘴気の深い森で独り優雅に暮らす人形遣いに、憧憬に近い感情を抱くことがある。人形と共に暮らしたいわけではない、その洗練された暮らしに憧れるのである。人形遣いは突然の来訪にも笑顔で出迎える。紅茶を差し出されたさとりは、鉄の足に似合う靴を作れないかと頼み込む。かっこいいからそのままでいいのにと人形遣いが言えば、いやいやそれではだめなの“かわいいの”がいいのと主張する。これではまるで自分がかわいい靴を欲しがっているみたいで、さとりは少し頬を紅潮させる。人形遣いは口元に手を当てて何やら考え込んだのち、明日には届ける、とだけ答えた。 地霊殿の住人ならみな知っていることなのだが、さとりは気分の浮き沈みが激しい。さとりは上品に鼻歌を奏でながら家へ戻る。何かいいことがありましたかとお燐が問うと、慌てて平静を繕い何でもなくってよと答える。感づかれていないつもりなのだろう。お燐はへぇとだけ答えてその場を去るのだが、物陰で忍び笑いをしていることはお空でも知っている。 翌日、コツコツと小さな音が玄関に響いた。柱の傍でそわそわしていたさとりは、その音を聞きつけるや否やカエルのように扉へ飛びつき、やはり平静を装う。青地の上下に白い前掛けを着た掌(てのひら)ぐらいの人形が、自身の何倍もある木の箱をハイと差し出す。さとりがそれを受け取ると、人形はトンボのようにどこかへ消えてしまった。さとりは居間へ戻り、さっそくお空を呼びつける。お空はとぼけた表情で、さとりと箱を交互に見遣る。純白の紐をほどくと、特大の赤い靴と、桜色にチェック模様の布切れが姿を現す。ご丁寧に着用法の絵まで添えられている。さとりはこの布が足首に巻くためのものだと把握して、さあ試してみましょうとお空を促す。お空は徐に右足の鉄をゴロリと外す。さとりは目が点になって、それから、二人で顔を見合わせて笑った。 その時、示し合わせたようにお燐がやって来る。お燐はさとりに、藁半紙で包まれた平たいものを渡す。首を傾げながら結びを解くと、中には古めかしい本が二冊入っている。お燐は餅のような表情で、さとり様が好きそうな本をお空と二人で選んできた、いつもはさとり様に貰ってばかりだからと言う。お空はお空で豆鉄砲を喰らっている。きっと今際まですっかり忘れていたのだろう。さとりはもう一度、焦げ茶色の表紙に視線を落とす。最初はただ良さそうな本ぐらいに思っていたのが、だんだん、遥か昔から追い求めていた運命の本であるように思えてくる。さとりはもう二人の顔をまともに見られなくなって、小さな腕で二人まとめて思いきり抱きしめる。お燐とお空はさとりの肩で子供っぽい笑顔を浮かべる。 古明地さとりを惑わせるのは造作もない。 おわり 『予言者』より