最後のお願い
山を哨戒していた椛は、川の向こう岸に怪しげな影を見とめた。即座に川を飛び越え、前方を遮るように剣(つるぎ)を突き立てる。 「誰だ」 黄金色の短髪をお団子に纏めたその者は岩場に腰かけたまま、観念した様子で両手を挙げ、徐に椛へ振り向いた。あどけない少女の顔だった。 「判っていたのか、ここに立ち入ってはいけないと」 少女はつるつるした表情のまま、じっと椛を見上げる。瀑布の弾ける音がけたたましく鳴り響く。 「貴方個人に恨みは無いが……、決まりだから」 少女の態度にやりづらさを覚えつつも、椛はゆっくりと剣を振りかぶった。 「待って」 その時初めて、少女が椛に口を開いた。明瞭な声色だった。 「最後に一つだけ、きいてくれないかい?」 椛は静かに剣を降ろし、無言で少女を促す。 「歌いたかったんだよ。青空と太陽の下で、もう一度だけ歌いたかった」 少女は天頂に漂う綿菓子を眺め、独り言のように語る。 「なら、貴方が歌うのを聴けば良いか」 「そうじゃない。あんたも、私の歌に合わせてほしい」 少女は、土色の袖から覗く右手を椛に伸ばした。椛は困った侵入者だと呟き、剣を置いて、少女の手を取った。 陽が沈みかけても少女はまだ歌っていた。一緒に歌わされた椛はもはや腹筋の制御が利かず、その場にへなへなと倒れ込んだ。 「あれもうお疲れ? しょうがないねえ。ま、練習に付き合ってくれてありがとね」 少女は後ろ手に夕暮れの向こうへ消えていった。椛は待て侵入者だぞ忘れたのかと呼び止めたかったが、その余力も湧かない。ただ、へたくそな歌が頭の中を繰り返し掻き乱すばかりだった。 おわり 『仔ヤギとオオカミ』より