遠すぎた月
殆ど墜落と見紛うような急降下で、鈴仙は夜の草原に着陸した。背後には夥しいほどの星が煌々と輝き、そして、瑕一つない正円形の月が鈴仙を見下ろしている。鈴仙は足がもつれるのも構わず走り出した。どこかに身を隠すところがないかと探し回っていると、周囲にも増して暗い竹藪が目に留まった。月の都の煌びやかな夜と比べるといかにも陰鬱で鈴仙はためらったが、自分の身を今一度思い返し、歯を食いしばって中へ飛び込んだ。 夢中で走っているうちに夜が明けた。必死に動かしていた足は今や枝のように柔軟性を失い、頭のてっぺんから血液が蒸発しているような寒気を覚えて、鈴仙は倒れるように竹へ凭れかかった。頭上には深緑の竹の葉が幾層にも重なっていて、それ以外の色は全く映らない。澄みきった風が鈴仙の耳を撫でる。久しぶりの穏やかな波長に、鈴仙は土の上で暫し微睡んだ。 ふと、草の擦れる音に鈴仙は目を覚ました。立ち上がって周囲を見渡すと、人間の子供のような姿をした兎が二、三匹、竹の向こうを駆け抜けていった。自分もまた兎であることから、鈴仙はその者たちの後を追った。鬱蒼と生い茂る竹林を掻き分けていくと、突如として前方の視界が開けた。中央には木造の荘厳な邸宅が門を構えていて、周囲にはたくさんの兎たちが戯れている。それを見た鈴仙の脳裡にある言葉がよぎった。兎を隠すなら兎の中。 もったりした草の味にも漸く慣れた頃、一際目立つ桃色ワンピースの兎が庭に現れた。その兎は鈴仙を見つけると、脇目も振らずまっすぐに歩み寄ってきた。 「あんた、月の兎ね」 自分より二回りも小さいその兎は、されど堂々とした波長を携えて鈴仙を見据える。今までどの兎にも正体を感づかれなかっただけに、思わず言葉が詰まって「な」と息を洩らした。 「言わなくても判るわ。まさか、あんたみたいな異形の見分けがつかないと思った?」 鈴仙は足の裏から根が生えたような心持ちで、その場に立ち尽くした。 「何を思って月を捨てたのかは知らないけれど……。ここはよそ者を黙って受け容れるような場所ではないわ。早々に立ち去りなさい」 首根っこを掴みかからん勢いで鈴仙に詰め寄る。鈴仙はすっかり気弱になって、兎たちの楽園に背を向けた。 その夜、鈴仙は竹林と草原の境界で天を見上げた。夜空の左半分は竹の葉に覆われていて、もう半分の空では、少し欠けた月が神々しい輝きを放っている。 「やっぱり、月で生きていくしかないのかな」 白く透き通る指を月へ向ける。だがいくら手を伸ばしても、どれだけ指先に力を込めても、一向に月へ届かない。そのうち鈴仙は力無く腕を降ろし、地面に這いつくばって頭を抱えた。 暫くして、鈴仙はゆっくりと体を起こした。夜はまだ続いていた。徐に立ち上がり、足の裏がしっかり地面と触れ合っているのを確かめる。それから、襟元の黄色い徽章へ徐に手を伸ばすと、目いっぱいの力を込めてそれを引きちぎり、暗闇の叢(くさむら)に叩きつけた。そうして、鈴仙は月明かりに顔を背けた。 翌朝、鈴仙は竹林の邸宅を再び訪れ、今度は正面の戸を叩いた。 おわり 『カラスとハト』より