にとりの不実
にとりは頭の後ろに手を組んで、鼻歌混じりに悠々と山の斜面を歩いていた。自分が発明した皿型の落ち葉回収マシーンについて、先ほど高額の取引が成立したところだった。今後は運河の辺りで大量のお皿が地を這うことだろう、などと頬を緩ませていると、剥き出しになっていた岩が思いのほか滑らかで、にとりは思いきり足を滑らせてしまった。にとりは勢い弾んで坂を転がり落ちる。斜面の一角に黒い大穴がぽっかりと開いていた。にとりは目を見開いたがそれで止まるわけでもなく、そのまま穴へ吸い込まれていった。 どこまで落っこちたのか、盛大に尻餅を付いたところでにとりの転落は漸く終焉を迎えた。にとりは痛む腰を押さえながら片手で土埃を払い、徐に立ち上がった。暗闇の向こうにはぼんやりと照らされた一角があり、人里を三日三晩雨ざらしにしたような朽ちた街道が伸びている。赤い提灯がぶら下がるひび割れた平屋から、間の伸びた雅楽の調べが微かに聞こえる。 「ち……地底だ」 にとりは真っ青になった。そうしてすぐさま、この土地から逃げ出したいと思った。にとりは天井を仰いだ。目に映るのは黒々とした空間ばかりで、どこから落ちてきたのかも判らない。 「あんた、どうした?」 突然背後から呼びかけられたので、にとりは声にならない叫びと共に竦み上がった。振り返ると、額に真っ赤な一本角をそそり立たせる大柄の者が、黄金の長い髪をかき上げてにとりを覗き込んでいる。鬼だ。にとりは魚のようにあうあうと口を上下させた。 「ん、よく見たら河童じゃないか。わざわざ遊びに来てくれたのか?」 にとりは涙混じりに思いきり首を振る。 「ははーん、さては迷い込んだな? よし、案内してやるからついて来な」 鬼は豪快な笑い声を上げると、大股で暗闇の方へ歩いていった。にとりはよほど躊躇ったが、他に頼れるものも無いので、俯き気味にその後を追った。 「へえ、ならあんたは山一番の発明家ってわけだ」 「ええ。私に掛かれば作れない物なんてありません」 「言ってくれるじゃないか」 かつてにとりの山に君臨していた鬼の印象とは裏腹に、この鬼はとても気さくに接してくれる。その落差に心をほぐされたにとりは、地底にあって眩しい笑みを浮かべるこの鬼に、すっかり心を許していた。 「ところで河童よ。今は天狗が山を統べているらしいが」 「そうですね」 「天狗は私たちのことをどう言っている?」 鬼の気楽な表情に、一瞬の翳りが見て取れた。だがにとりは大して気にも留めなかった。 「そりゃあもう、鬼たちの活躍があったからこそ今の秩序が成り立っている、なんてありがたがっていますよ」 すると鬼は急に歩みを止め、全身でにとりに振り返った。先ほどまでの笑顔は、もはやどこにも見当たらなかった。 「それはどういう意味だ? はっきり尋ねよう。天狗やお前は、鬼が帰ってきてほしいと思っているか?」 にとりは鬼に迫られて、弛んだ気持ちが一瞬にして吹き飛んだ。だが頭の片隅には、ついさっきまでの温厚な鬼の振る舞いがこびりついていた。せんだってにとりたちを取り巻いていた和やかな雰囲気が、惜しくて堪らなかった。 「ええもちろん。なんてったって鬼の方々が」 にとりは引きつった笑顔で、喉から声を絞り出した。そのときにとりの腹に鬼の踵(かかと)が据えられ、次の瞬間、にとりは鬼の足に思いきり押され、体が地面から剥がれた。背中が重力に引き摺り込まれる最中(さなか)、見上げると、虚ろな目で岩壁を見つめる鬼の姿があった。 おわり 『サルとイルカ』より