命がけの恩返し
朝靄に白く染まった湖で、一人の虫と一人の妖精が激しい弾幕の応酬を繰り広げていた。氷の妖精は寝ぼけ眼(まなこ)を逆立てて迫り、虫の妖怪は黒光りの外套を翻して空中に八の字を描く。両者はとめどなく青や緑の光弾を注いでいたが、氷の弾幕で周囲が冷えたおかげか、勢いを増した妖精が畳みかけてきた。寒さに弱い虫の妖怪は対抗する術を見失い、弾丸のように迫り来る氷の塊を目の当たりにして、震える両腕を体の前に縮めて瞼を固く閉じた。 その時、虫の妖怪は体がふわりと風に乗ったような錯覚を受け、浮揚感に驚いて目をばちりと開いた。虫の体は、紅い長髪を振り乱す緑の何者かにしっかりと抱えられていた。赤髪の者は空気を蹴るようにして氷の弾を左右に躱し、隙を見て虫を地面に降ろした。虫はお礼の言葉を掛けようとしたが、赤髪は無言で逃げろと合図を送る。虫は深く頷き、赤髪に背を向けようとした。だが虫は、顔を真っ赤にした妖精が赤髪の背後で力を込めているのに気付いた。すぐさま虫は弾くように地面を蹴り、全身を以て赤髪へ思いきり激突した。赤髪の体は斜め先に二間ほど吹き飛び、虫の身は妖精の前に曝け出された。間髪入れず、無数の粒が虫を乱れ打った。虫は、全身を走る痛みと突き刺すような冷気に薄れゆく意識の中、膝立ちで呆然と虫を見つめる赤髪に向かって、ただ一言ありがとうと呟き、ひっそりと唇を閉じた。 「あーあ。リグルの残機が無くなっちゃった」 「そのなけなしを奪ったのは誰ですか」 おわり 『ヘビとワシ』より