アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

二色蓮花保証人


 縁側に寝そべっている鳥がいた。鳥のはずなのだが、大人の女性のような肢体を持ち、長髪のてっぺんには座布団みたいな深緑のリボンをつけて、垂れ下がるマントの向こうには夜空が映し出されている。
 ふと霊夢は、少女の枕元に小さな編み籠が添えられているのを見つけた。顔を寄せて中を覗く。藁敷きの上に褐色の卵たちが賑やかに集まって、日差しでつややかに光っていた。それを見た途端、霊夢の口に唾液が溢れる。
「人ん家で勝手に寝るな」
 弾力のある頬を指でつつく。少女は寝ぼけ眼を擦ったのち、再び眠りに就こうとした。
「へえ、そんな態度を取るのね。わかった。なら滞在料として、この卵は頂いておくわ」
 霊夢は徐に籠へ手を伸ばした。そのとき、少女は頭皮を引っ張られたように目を見開き、矢のような速さで起き上がると素早く籠を両手に抱えた。霊夢は呆気に取られ、二人は暫し真っ白に見つめ合った。森の方から小鳥の長い鳴き声が聞こえる。
 我に返った霊夢は、襟元を正して少女に詰め寄った。
「そんな子供みたいな顔してもだめよ。さ、卵を渡しなさい」
 少女は座り込んだまま、ブンブンと首を振って取り合わない。霊夢の心は滞在料などとうに求めていなかった。ただ、瑞々しい光沢を放つその曲線美を、口に含んでみたかった。
「ならこうしましょう。その卵を“借りる”というのはどうかしら。もちろんいつか別の卵を返すわ」
 理解しているのかしていないのか、少女は怪訝な顔で霊夢を見上げる。
「そうよね、返すと言われたって信用できないわよね。そうね、それならあいつを保証人に立てましょう」
 霊夢は、縁側の向こうで茶を啜る黒い恰好の少女を指差した。突然呼ばれたからなのか、黒の少女は間抜けな表情で霊夢に振り返った。霊夢は「魔理沙」とその少女を呼び寄せ、卵を持つ少女との間に立たせて、約束を交わし、中身の半分を受け取った。卵の少女はぼんやりと座ったまま、霊夢の言うに従った。

   *

 ある日、黒と赤の壁に囲まれた地霊殿の食卓にて、うつほは主人に与えられたおやつを早々に平らげた。空になった純白の皿を見て、うつほは口に溜まった唾液を頬で絞る。その時、うつほは脳裡に不思議なわだかまりを感じた。放っておいてはいけないような気がして、眉間にしわを寄せて記憶を引っ張り出そうとする。その間、舌は口内の残滓を忙しなく探し求める。そうして、奥歯の裏側に残っていた黄身を舌で掬い取った瞬間、うつほは電撃を浴びたように高天井を見上げた。
「霊夢」
 碌に身支度も整えないまま、うつほは屋敷の外へ飛び出した。

 神社の角は日光にあおられて青々とした葉を満たしていた。石畳に降り立ったうつほは、箒を片手にじっとりとした視線を送る巫女装束へ近寄った。
「返して」
「そこ、今掃除したところなんだけど」
「たまご返して」
 うつほの言葉に霊夢は目線を浮かせ、やがて小さく「あ」と洩らした。
「あんた、ひと月も前のことを今さら思い出して来たのね」
「たまごは?」
「悪いけれど、今は物をあげる余裕がないのよ。そのための“約束”だったでしょう?」
 うつほは首を傾げるばかりで、何のことだかさっぱり判らない。そうしているうちに「掃除の邪魔」と急き立てられ、うつほは為す術も無く神社を後にした。

 地底の家へ戻ったうつほは、暗がりの廊下を伝って裏庭へ出た。猫やら鴉やらが戯れる輪の中心に、水色の服を着たご主人様がいた。淡い葡萄色の短髪がそよ風に靡いている。
「さとり様」
 さとり様は抱いていた猫を柔らかく土に降ろし、無言で振り向いた。それに合わせて、いくつもの紐でさとり様と繋がる真紅の眼球が、うつほを眺め回すように浮き上がった。二つの目と一つの眼が、うつほの体をじっと捉える。
「かわいそうに。それなら、その時の光景をよく思い浮かべてみましょうか」
 さとり様に促され、うつほは力を込めて念じた。歪み一つない楕円を描く理想の温泉卵が真っ先に浮かび、これではないと気を改める。そうして頭に映ったのは、霊夢と黒装束が立ち並ぶ縁側の一場面だった。霊夢たちと何やら話し合ったところまで思い出したが、彼女らに言われたことはどういう意味なのか、皆目見当もつかない。
「うんうん、へえ……。あの巫女にしては珍しく理性的な取り決めをしたのね」
 一人で頷いていたさとり様だったが、ふと第三の目を下ろし、澄んだ双眸だけをまっすぐうつほに向けた。
「行きましょう。貴方が行くべきところは他にあるわ」

 さとり様に連れられてやってきた先は薄暗い森だった。細く伸びる獣道にまで雑草がはびこっていて、左足にそれが絡まるのをうつほは煩わしく思った。
「さとり様、外へ出て大丈夫なのですか?」
「ペットが良くて主人が悪い道理はないわ」
「霊夢のところへ行かなくていいんですか?」
「ええ。後で必ず判るわ」
 やがて、二人は小さな小屋に辿りついた。風通しの良さに右を向くと、さとり様はいつの間にか木陰に隠れていた。途端に心細くなって胸が痞(つか)えるが、さとり様に言われた通り、木の扉を叩いて住人を呼び出す。小気味の良い音と共に、扉から金髪の少女が現れた。肩から下げた黒の吊りスカートに、白い絹の前掛けが踊っている。
「あん? 珍しいな」
「こんにちは魔理沙。貴方がたまごを返してくれるの?」
 前のめりになるうつほに魔理沙は眉を顰(しか)めた。
「何のことだ? 鳥の卵を奪い取った覚えはないが」
「貴方が返してくれるって」
「そう言われても。なら、いつどこで私が卵を借りたって言うんだ?」
 そもそも魔理沙から卵を貰うことに疑念を抱いていたうつほは、すっかり自信が無くなって、玄関向こうの床へ目線を落とした。
「いや、やっぱり勘違いかも」
「そうか。なら早いとこ他を当たるんだな」
「そうかしら」
 唐突にせせらぎのような声が流れる。振り向くと、さとり様が茂みを跨いで姿を現した。さとり様は幅の小さな歩みで、うつほの隣に並んだ。
「貴方、巫女の保証人になったそうじゃない」
「なんでそれを知っている?」
「おくう、この通り故意犯よ」
 さとり様は自信に満ちた目でうつほを見上げるが、見当もつかないうつほはただ首を捻るばかりだった。
「あのね、この魔法使いはお約束をしたのよ。もし巫女が卵を返せないときは、私が代わりに返しますよって」
 さとり様は、ちらりと魔法使いを見遣った。
「ふーん。『面倒な妖怪だな』、『頭の弱い奴は軽くあしらうに限る』」
 うつほは、さとり様が魔理沙の心を読み上げているのだと理解して、切なくなって、力なくその場に蹲(うずくま)った。うつほの頭上に、不思議な沈黙が渦巻いた。
「判った判った。私が悪かった」
 それを割ったのは乾いた声だった。屈んだ魔理沙がうつほを覗き込む。手を差し伸べられ、うつほはじんわりと温かみを感じながら起き上がった。うつほの隣ではさとり様が冷ややかな視線を浮かべていた。
「さあ、卵を返してあげたら?」
 だが魔理沙は、手をこねくり回して渋った様子を見せた。
「まあそうなんだが……。いまいち納得できないな。元はと言えば霊夢のせいじゃないか」
「その通り」
 その時、さとり様の目が狙い澄ましたように輝いた。

 再び神社を訪れると、霊夢は年季の入った手水場を丹念に磨いていた。うつほは打ち合わせに従い、一人で霊夢に近づいた。
「霊夢。やっぱりたまごを返してよ」
「あんたまた来たの?」
 いかにも迷惑そうに顔を顰(しか)めるので、うつほは自分がとても悪いことをしているような気になって、思わず目を逸らした。
「霧雨魔理沙には返済能力がありません。よって、貴方に返済の義務が生じます」
 その時、霊夢の背後で急に声がした。霊夢は慌てて飛び退き、その陰からさとり様が顔を出した。忍び寄っていたのだろうか。分厚い本を両手に広げて何やら読み上げている。
「何よあんた。とにかく、返す卵は無いわ」
「そうですか。えーと……、債務者に返済の意思がない場合、動産または不動産に対して強制執行」
「どういうことよ」
 霊夢をよそに、さとり様はうつほの手を取って社殿に向かう。そこへ、空中から先回りした霊夢が行く手を遮った。
「ちょっと、なに勝手に入ろうとしているのよ」
「卵が無いのなら、それは仕方ないですよね。だから、卵に相当するものを代わりに頂いていくだけです」
「そんなこと許すわけないじゃない!」
 陰陽玉を展開して制止しようとする霊夢に、さとり様は軽く溜め息をついた。
「博麗霊夢、貴方には謝罪の気持ちがありませんね。それならこちらも考えがあります」
 さとり様はつま先立ちで背伸びして、「いいですよー」と声を送った。すると社殿の裏から、いかにも魔法使いらしい三角帽子を目深に被った魔理沙が、半ば照れ気味の様子で姿を現した。
「霊夢、私はこいつらに仲介を頼まれた。よって私が第三者の立場で命じる。強制執行だ」
 魔理沙は得意げにうつほの背中へ回り、ポンと肩をたたいた。事前に示し合わせた合図だった。うつほは、一目散に神社へ駆け出した。賽銭箱の裏へ回り、力のこもった足取りで石段を登る。背後を振り返ると、魔理沙とさとり様もうつほに続いて社殿へ殺到している。霊夢は、とうとう降参の声を上げた。

「ありがとう。貴方のおかげで首尾よくいきました」
 端を歩く魔理沙を真ん中のさとり様が覗き込む。うつほはその横で両手いっぱいにまんじゅうを抱え、夕日を浴びながら、木々に挟まれた参道を下っていた。
「さとり様、食べてもいいですか?」
「どうぞ」
 さとり様の微笑みを受けて、特段柔らかそうな一つを唇で啄(ついば)み、吸い込むように頬張る。口いっぱいに奥ゆかしい甘さが広がり、うつほは顔をほころばせた。
「私も一個貰うぜ」
 魔理沙がうつほに近寄り、うつほの腕からまんじゅうをひょいと拾い上げた。
「いや、借りたんじゃなくて貰ったんだ。いいだろ? 一つぐらい」
 うつほは、自分が物を取り上げられたような表情を浮かべていたことに気づき、恥ずかしくなって少し俯いた。
「あの巫女の責任ではあるのですが、ちょっとひどい仕返しをしてしまいましたし、今度はお土産を持って訪ねましょうか」
「そうだな、それがいい。ついでに酒も持って宴会だ。それにしても」
 語尾にぼそりと呟いたのが気になって、うつほは魔理沙の顔を見た。
「やってみたかったなあ。強制執行」

  おわり


『シカとオオカミとヒツジ』より