小さな清涼剤
慧音は六畳の自室と埃まみれの倉庫を何度も往復していた。来たるべき満月の夜に向けて、歴史の編纂を執り行う準備をしなければならない。そのためには書類の整理、和紙の確保、資料の分析、夜食の用意――、やるべきことはいくらでも湧いてくる。大量の書物を抱えて倉庫から出た慧音は、麗らかな陽気に意識を濁しつつ、些かふらついた足取りで縁側を上ろうとした。 「そんなに苦しいんだったら、外でひなたぼっこでもすればいいのに」 不意に丸みを帯びた声が足元から聞こえて、慧音はすっ転びそうになった。見下ろすと、かき氷みたいな髪の女の子が慧音をじっと仰いでいる。青いリボンを頭にふわりと結び、湖面のようなワンピースを纏い、背中には氷柱(つらら)のような羽が付いている。 「そんなことは言われなくても判っている」 慧音は目線を正面に戻し、何事も無かったかのように部屋へ向かった。 草陰に潜む虫の声が窓から聞こえる時分に、慧音は黒塗りの和机で頭を抱え込んだ。今、慧音の脳裏には、人間と妖怪の凄惨なやり取りがありありと映し出されている。人目のつかない山中で、その人間は、虐げられるために生まれたが如く妖怪になぶり尽くされ、帰らぬ人となった。対する妖怪は、今も奥地で平然と生き永らえている。慧音は、妖怪の襲撃そのものが珍しくなった昨今にあってこのような事件が起こっていたことに驚いた。そして何より、この事実を歴史に含めるべきか迷った。人間が妖怪への恐れを忘れないようにするためには必要かもしれない。だが、かようにただ猟奇的でしかないこの事件を世に広めたところで、いったい何の意味があるだろうか。歴史上の重要性があるわけでも無い。いたずらに人々を動揺させるぐらいなら、いっそのこと“無かったことに”してしまおうか。しかしそれでは、妖怪の犠牲となったこの人間は永遠に忘れ去られてしまう。慧音は、角の先が融けそうなほどに熱く頭を悩ませた。 「あ。歴史の本を作っているんでしょ。あたいにもできるよ」 ふと、好奇に満ちた声が六畳の部屋に彩りを添えた。どこから入ってきたのか、あの青い服の女の子が慧音の左に並んで座っている。「紙を貸して」と言うので余った和紙と適当な筆を渡すと、女の子は熱心な眼差しで何やら描き始めた。慧音は吸い寄せられるようにその紙面を見た。見る見るうちに、人型や木を描いた拙い絵ができ上がっていく。 「今日は三匹も捕まえたからね」 人型に紅葉みたいな手が継ぎ足され、そこに角ばったものを持たされて、その上に一際大きな字で“カエル”と印された。その単純な絵をじっと見つめているうちに、慧音は思わず腹の底から吹き出してしまった。 「これがお前の“歴史”か?」 女の子は自信たっぷりに頷く。 「そうだな。歴史なんて要は捉え方だ」 慧音は頭の靄がすっきり澄み渡ったような心持ちになって、軽やかな穂先で編纂の作業を再開した。懸案だったあの事件は、慧音の解釈と表現を加えた上で、歴史の片隅に記載された。 おわり 『牡ウシと仔ウシ』より