アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

道連れ


 頭に爪楊枝がいくつも刺さったような気がして、わかさぎ姫は頭上を仰いだ。黒色の空には色とりどりの金平糖が散りばめられているばかりで何も見当たらない。鏡のような水面を見下ろした。子供っぽい肉感の生足が、重力を逆さにしたかのように真上へ直立している。足先には商店で買ってもらったような赤い運動靴を装着している。わかさぎ姫は体を前に傾けた。真っ逆さまに翻った黒色のスカートと、露(あらわ)になった綿製のドローズが、月明かりの湖面にはっきりと映った。このとき、わかさぎ姫は、自分が何者かに噛みつかれていることを覚った。
 わかさぎ姫は体の中心に力を込め、熱を帯びた頃合にそれを一度に解放した。水晶色の弾が放射状に広がり、薄闇の湖に光の波紋を描く。周辺を照らすばかりで、頭上の者には命中した気配がない。続いて、尾鰭で勢いをつけて、重苦しい頭を思いきり左右に振った。静まり返った湖に水飛沫(みずしぶき)が跳ね回る。頭上の者はこんにゃくのように揺れ動くばかりで、一向に外れる気配がない。それどころか牙が余計に頭皮へ食い込むので、鋭さを増す痛みに耐えきれなくなったわかさぎ姫はすっかり萎れて、鰭をもぎ取られたような淋しい心持ちで縮こまってしまった。
「ねえ。どうしてこんなことをするんですか?」
 四方には黒々とした湖面が広がり、その向こうには森の影が見える。生き物の姿はどこにも見当たらない。わかさぎ姫は、誰もいない世界に自分と噛みつきっ子だけが取り残されたような気になって、こみ上げる切なさに細い息を洩らしながら空を見上げた。その時、わかさぎ姫は夜空にザリガニを見つけた。紅い装束を纏った人間の少女が、白い袖をひらひらさせながら空中を漂っていた。暫くはぼんやりとそのザリガニ少女を目で追うばかりだったが、不意に閃いて、わかさぎ姫は目を刻々と見開いた。わかさぎ姫は水面が揺れるほどの勢いで息を吸い込み、喉の奥から塊のような叫びを吐き出した。向こうの木々が微かに揺れる。ザリガニはピタリと動きを止め、眉間を盛り上げてわかさぎ姫を見下ろした。明らかに機嫌を損ねた表情を見るとわかさぎ姫は躊躇(ためら)わずにいられなかったが、意を決して、水面で袖を強く握りしめた。
「あなたは! 妖怪の私を! 放っておくつもりですか! このザリガニ!」
 ザリガニは見る見るうちに顔を顰(しか)め、威嚇するように陰陽玉を展開した。わかさぎ姫は破裂しそうな鼓動を必死に堪え、震える片手を水面に上げ、糸を引くようにクイクイと挑発する。すると間髪入れず、神々しい輝きを放つ七色の弾がわかさぎ姫目掛けて飛び込んできた。わかさぎ姫は生贄になったような心持ちで、全身に直撃を浴びた。直後、突き上げられるような爆風が巻き起こって空中に放り出され、わかさぎ姫は円弧を描いて岸辺の縁に叩きつけられた。激しく痛む背中を片手で押さえ、もう片方の手で岸に掴まり蹲(うずくま)る。
 漸く痛みが引いて畔に目を遣ると、黒色の上下を着た金髪ボブの女の子が地面に伸びていた。わかさぎ姫は、自分の頭が確かに軽くなったのを感じ、すっかり安心して、疲れ切った体をずるりと湖に沈めた。

  おわり


※『スズメバチとヘビ』より