アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

キスメの心替え


 それからキスメは、事件の無い日は慧音の家で家事を手伝い、依頼が舞い込むと慧音に随行した。どの事件も取るに足らない妖怪が絡む程度、日常の些細な問題だった。事件を解決する度に、キスメは人々に深く感謝された。キスメは、柔らかな温もりを伴う感情を初めて理解した。もっと、人間の心に触れてみたいと思った。
 一方、人間を助けて人間に喜ばれる生活を続けているうちに、あれこれ悩み込む夜が増えていった。妖怪として生まれた自分が人間の側に立つのは、果たして道理に適っているのだろうか。精神を拠りどころとする妖怪が、ひとたび存在意義を捻じ曲げればもう自分では無くなってしまう。存在そのものが霧散してしまうかもしれない。
 キスメは、慧音も寝静まった頃、障子窓の隙間から黒色の空を覗いた。
「ずいぶん規則正しい生活になったなあ」
 雲間に映る十三夜は僅かに欠けていた。


 翌日も穏やかな夜を迎えた。キスメと慧音は、どちらからともなく縁側に腰掛けて熱いお茶を啜っていた。
「慧音」
 キスメは息混じりに右隣の少女を呼んだ。
「私、もしかしてこのまま消えてしまうのかな」
「それは、いつかやられてしまうかもって言いたいのか? お前はなぜだか注意力散漫なところがあるから」
「ううん」
 軽く笑みを浮かべる慧音を横目に、キスメは足下(あしもと)の土をぼんやりと見つめた。
「妖怪なのに、人間みたいな生活を続けてもいいのかなって」
 頭上の風鈴がちらりと音を立てる。慧音は湯呑みを静かに降ろし、キスメに体を捻った。
「私はな、妖怪なんだ。もう気づいていたかな」
 キスメも、投げ出していた足を縁側に上げて座り直した。いつしか慧音は、真っ直ぐな瞳でキスメを見つめていた。
「私の場合、元が人間ではあるが……。今まで里に関わり続けてきたのは、やっぱり人間が大好きだからなんだ」
 キスメは床の木目を指でなぞった。私は人間が好き?
「キスメ、悩むのは大切だが変に思い詰めてはいけない。お前に合った生き方、お前の望む方向に従うのが一番だ。じっくり、よく考えて」
 慧音は「私は先に寝るよ」と付け足し、じんわりと立ち上がって襖の方へ体を向けた。
「すいませーん!」
 その時、玄関口から甲高い声が届いてきた。最初の夜と同じだ、と思った。

 引き戸を開けると三人の子供が並んでいた。子供たちは「お姉ちゃんがいない」「帰ってこない」と口々に訴える。
「事情は判った。お姉ちゃんはどこへ行ったんだ?」
 慧音はその場に屈み、子供たちと同じ目の高さで問いかける。子供たちは互いを見合わせて押し黙ってしまった。月明かりが彼らの陰影を一層引き立てる。
「そうだな。どこか、お姉ちゃんが行きそうなところは無いか?」
 一番背の高い女の子が面を上げた。
「あのね、お姉ちゃん、一回家に帰ったんだけど、何かを失くした、ってまた出掛けちゃった」
「お姉ちゃんは何をしていた?」
「いつも竹を取りに行くよ。籠、作るから」
 隣にいた男の子が、歯切れの良い口調と共に慧音を見た。慧音は頷き、キスメに目を合わせた。

 子供たちを一旦家に帰した慧音たちは、その足で竹林までやって来た。竹林の中は月光もあまり届かず、夜目の効くキスメでも周囲をはっきりと見渡せない。前を行く慧音は「あいつがいればよかったのだが」と言いながら、鬱蒼と茂る竹の葉をかき分けていく。キスメは右手に持った鉄のバケツをガラガラと言わせながら、その後を懸命に附いていった。
 暫く進んでいくと、前方に一際黒い影が見えた。うっかりすると見過ごしかねないその暗闇は、されど僅かな月明かりの下で明らかに不自然だった。キスメも慧音も自然と駆け足になる。
 竹を背にした一人の女性が、球体の暗闇に追いつめられていた。人ひとりすっぽりと呑み込みそうなその球体がじりじりと女性に詰め寄る。女性は何やら聞き取りづらい譫言(うわごと)を洩らしている。横から回り込んだ慧音が、「こっちへ来い」と手を差し伸べようとした。
「いやあああああああ! なんで、なんで私ばっかり!」
 突如、女性は腹の底から悲鳴を上げ、かと思うと辺りの雑草を引っこ抜いて球体に投げつけ始めた。構わず女性を助けようとする慧音に対し、キスメは暫しその光景に言葉を失った。
「キスメ! 私はこの人を連れ出すから後を頼む!」
 女性は慧音に両腕で捕まえられ、尚も打ち上げられた魚のように暴れていた。半ば引き摺られるような形で連れて行かれる女性に、キスメはすっかり目を奪われた。
「どこを見ているの?」
 突然の呼び掛けに思わず肩が震える。振り返ると青白い光線がすぐそこまで迫っていた。反射的に身を翻す。光の筋はキスメの袖口を掠めていった。
「こんな月夜にはピッタリでしょう?」
 何の前触れも無く、球状の闇が霧のように失せていく。その中から、満月のような金髪に紅いリボンを付けた黒服の女の子が現れた。風船のように上へ下へ揺れながら、両手を広げてキスメを見つめる。
「どんなのが出てくるかと思ったら、また子供?」
「子供でも妖怪よ? 同じ仲間なら侮れないって判るでしょう」
「やっぱり私、妖怪に見えるんだ」
 キスメは、自身をじっと捉える紅い瞳に思わず半歩下がった。
「どうして私の邪魔するの? 妖怪のくせに」
 生ぬるい無数の気泡が頭に湧き上がり、キスメは図らずも返答に窮した。
「判った。人間に打ちのめされて、渋々人間の言うことを聞いているんでしょう。情けない。同じ妖怪として恥ずかしいわ」
「違う」
 その瞬間、キスメの心を埋めていた蟠(わだかま)りが一息に冷え切った。
「半分は合っているけれど……。言いなりになっているわけじゃない。今の私は人間に味方しているの。それだけ」
 言い終えるや否や、キスメは手に持っていたバケツを地面に置いて、両足を突っ込んだ。その瞬間、キスメを乗せたバケツがはるか上空へ舞い上がる。キスメは、バケツに入らない膝から上を曝け出したまま、前傾姿勢で細い取っ手をしっかり握り、目をぎゅっと閉じて竹の葉の衝突に耐え忍ぶ。
 漸く竹林を突破すると、澄み切った夜の空気がキスメの全身を撫でた。金髪の少女は一足早く空中で待ち構えていた。眼下には黒々とした林が広がり、夜空と月と灰色の雲が上半分をぐるりと囲む。
「貴方、もしかしてそのみすぼらしいバケツが無いと飛べないの?」
「貴方こそ、何の容れ物も無くて恥ずかしくないの?」
「バケツ妖怪とは会話にならないわ」
 少女は俄かに目つきを鋭くさせて、紅い光弾を放射状に放ってきた。キスメは取っ手を握ったまま右へ傾く。それに合わせてバケツが右へ流れていく。
「うん、よく馴染んでいるね」
「もう凌いだつもり?」
 少女は無数の青い弾をばら撒き始めた。キスメは翼のように広がる弾の群れを冷静に目で追いつつ、バケツの取っ手を操縦桿のようにして弾の間を掻い潜っていく。
 ふと、斜め上に間隙を見つけたキスメは勢いよくそこへ飛び込んだ。弾の往来を完全に抜け、強風に髪を揺らしながら、少女の頭上を完全に捉えた。
「『釣瓶落としの怪』、思い知れ!」
 キスメは足元に思いきり踏ん張りを込める。直後、バケツの底から極太の光線が降り注いだ。


「あの女性、どうやら形見の髪飾りを失くしたらしいんだ」
 再び竹林へ戻ってきた慧音と一緒に、キスメは暗い地面に這いつくばって目を光らせていた。
「見つかるわけないよ」
「だが仕方ない。彼女、家へ着いた途端あまりにも悲惨に泣き崩れたものだから。どうしても見つからなかったらまた明日探そう」
「髪飾り?」
 とぼけた調子の声に、二人は同時に後ろを振り返った。
「これ。夕方に拾ったんだけど」
 衣服のあちこちを焦がした金髪の少女が、月光を仄かに映す金属片を差し出した。


 白い布団にくるまった慧音を横目に見てから、キスメは天井の板をぼんやりと見上げ、ゆっくりと細い息を吐いた。
「私の生き方」
 キスメは宙に向かってぽつりと洩らし、続いて、先のできごとをなぞるように思い返した。
 狂ったように騒ぎ立てる彼女を見たとき、私は思わず気を取られてしまった。けれどもそれは、取り乱した人間の姿に驚いたり、痛ましい彼女を可哀そうに思ったりしたからじゃない。
 あのとき、私は確かに、ゾクゾクした悦びに背筋が震え上がった。足先からてっぺんまで恐怖に染まる様子、悲痛に歪める人間の表情、ああもっと見たい。もっと見せてほしい。恐れおののく人間の醜態を。
 キスメは天井へ向けて両手の爪を立ててみせた。そのままピタリと硬直し、ひとしきり経つと、キスメは両手をだらりと下ろした。そして再び、細々とした息を棚引かせた。

 障子窓に映る色がうっすらと青みを帯びた頃、キスメはやおら起き上がって部屋を出た。そうして静まり返った座敷へ入ると、黒の長机を前に正座した。机の上にあった適当な紙と筆を手元に寄せ、あれこれ考えながら一文字ずつ思いの丈を綴ってゆく。
 紙一枚分がちょうど埋まると、キスメは筆を置いて座敷を離れ、手ぶらのまま、慣れ親しんだ平屋の戸をくぐった。


  上白沢 慧音さん

   前略

 ほんの短い間だったけれど、慧音さんには本当にお世話になりました。妖怪の私にお手伝いをさせてくれて、ありがとうございます。
 私はあの晩、これから自分はどうすればいいのかと、すごく悩みました。ひどく動揺したあの女の人を見たとき、私は内側から溢れ出す快感を押さえられませんでした。妖怪の本能なのでしょうか。結局、私には人間を恐怖に突き落す役割が一番合っているかもしれません。
 人間の味方になって人間を助けるというのは、私にとって新鮮な体験でした。それまで、人間なんて恐れることしか能の無い生き物だと思っていました。けれど、ありのままの人間を間近で見ていると、毎日いろいろな発見がありました。だから、「人間が好き」と言った慧音さんの気持ちもいくらか判ります。
 それでも私はやっぱり妖怪です。心の底から妖怪なんだと、昨日のことでつくづく思い知りました。だから私は里を離れます。突然のことで、慧音さんにお別れの挨拶もできませんでしたが、どうか許してほしいです。
 それではお元気で。また、どこかで会いましょう。

     草々
            キスメ


 空が明るくなった頃、キスメが辿りついた先は、岩肌にぽっかりと開いた洞窟の入り口だった。まるでその口が息づいているかのように、風が中へ吸い込まれている。
 キスメは一度、振り返って人里の方角を見た。遠くに見える軒先は朝の陽射しに柔らかく包まれ、穏やかな一日を迎えようとしている。キスメは再び正面に向き直り、それから一切背後を振り返ることなく、風穴の奥へと潜り込んでいった。

  おわり


『トンビとハクチョウ』より