アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

春を告げたかったチルノ


 チルノは掌に氷を作り、それを湖面に投げ込んでは波紋を眺めて遊んでいた。
 不意に、生暖かい風がチルノの頬を撫でた。チルノはその感触にぶるりと震え上がり、周囲を忙しなく見回した。辺りは布のような霧に覆われていて、その向こうに小さな影を見とめた。チルノは湧き上がる好奇心に突かれて、その影へ近づいていった。
 白い装束の、チルノと同じぐらいの背丈である少女は、春をばら撒くのに夢中だった。チルノの呼びかけにも全く反応しない。楽しげに躰(からだ)を弾けさせる様子を見ていると、チルノはその少女がなんだか羨ましくなってきた。
 この湖には春が行き渡ったのか、少女がどこかへ行こうとする。チルノは慌ててその後を附いて行った。

 通りを歩く人々は布地を何枚も重ね着しつつ、そわそわした様子でしきりに空を見遣っていた。装束の少女は当初、空中から人里を遠巻きに眺めていただけだったが、やがてじわじわと接近を始めた。チルノもそろりと後を追う。
「あ!」
 ふと、真下から明るい声が聞こえてきた。見下ろすと、子供が少女を指差して笑っている。平屋の間を伸びる細い道に、くすんだ色の着物を纏う子供たちが集まって跳ね回っていた。前方に目線を戻すと、光り輝く粒子が少女の足先からさらさらとこぼれ落ちている。金粉みたいなそれはそよ風を浴びてうっすらと桜色に反射し、瓦屋根や軒先に降り注いでいく。
 少女は牛車のようにゆったりとした動きで人里の上空を周り、その度に人々から喜びと感謝を浴びた。チルノも一緒になって春を撒いてやろうと、見よう見まねで腕を開いたり閉じたりする。
「見て見て! あたいが春を持って来たんだよ」
 ひとしきり動き回ったチルノは一度地上に降りると、胸を張って周囲に語りかけた。「ひんやり冷たい」と一部の子供には大人気だったが、人々の多くは空中を舞う少女に夢中だった。
 思いのほか構ってくれないので、チルノはむくれつつ羽ばたいて少女の下へ戻った。少しちょっかいをかけてやろうと、前方へ回って顔を覗き込む。少女の頬は、風呂上がりのように紅く上気していた。少女から伝わる熱気にチルノは思わず身を退いた。
「大丈夫?」
 少し距離を置きながら、チルノは喜色満面の少女に問いかけた。その間にも、地上からは無数の称賛が入れ代わり立ち代わり響いてくる。少女は顔を歪めたまま目をきつく閉じて、顔の前に持ってきた両手をぎゅっと握り締めた。
「どうしたの? 恥ずかしい?」
 チルノは恐る恐る少女の正面に近づき、冷たい指先で少女の頬をそっとなぞった。その瞬間、少女は破裂したように両手両足を広げ、体幹を軸にしてその場で激しく回転し始めた。同時に、少女の足から夥しい粒子が溢れ出し、少女の周りでぐるぐると渦を作る。竜巻だ、と思った次の瞬間、飛んでいたチルノは空気の流れに全身を押し込まれた。渦巻きは乱れに乱れ、チルノは上へ行ったり下へ行ったり、鞭みたいに何度も地面に叩きつけられた。


 空に橙(だいだい)が染み渡りつつある頃、チルノは田んぼの傍に仰向けで寝そべっていた。
「あたいは何がしたかったんだろう。氷が好きなのに春を撒いてやろうなんて思って、ビタンビターンってされて」
 チルノは耳の下にできた小さな擦り傷をさすりながら、寝返りを打って人里の方を見た。人里のそこかしこには、見えない春の息吹が確かに根付いている。
 ふと、「ひんやり冷たい」と寄って来てくれた子供たちの顔を思い出した。チルノは体を起こし、掌に氷を作ってみる。水晶のように透き通った塊が、夕日を浴びてじんわりと汗をかき始めた。チルノはそれを握りしめ、人里へゆっくりと歩き始めた。

  おわり


『カニとキツネ』より