アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

リリーが贈る高度経済成長期


 にとりは川のせせらぎに坐して、生ぬるい日光を背中に浴びながら、依頼されたカメラの修理をのんびりとこなしていた。
 四隅のネジに取り掛かろうとしたところで、不意に、鼻先を撫でるような甘い香りが漂ってきた。見上げると、花弁のような白色の装束を纏った小さな子が、太陽を隠すようにして両手を広げ、にとりを見下ろしている。ふわりふわりと空中を漂う少女に、にとりはぽかりと口を開けた。少女は、曲芸団の円蓋みたいな帽子をちょこちょこと触りつつ、にとりの目をじっと見つめている。にとりはひとしきり少女を見つめ返してから、あ、と声を洩らした。
「そっか。私のところにも春を届けに来たんだね?」
 少女はゼンマイ仕掛けのように刻々と頷く。
「どうぞ。好きにやっちゃいなよ」
 にとりは後方に手を付いて楽な姿勢を取り、弛緩した笑顔を天に向けた。空中の少女は静かに目を閉じて、ゆっくりと息を吸い込み始めた。それに合わせて、辺りの空気がピンと張りつめる。枝の先に蕾(つぼみ)を付けた灰色の木や、未だ雪を被っている背の低い植物が息を潜めている。
 ふと、少女は両手を胸元に折り畳み、直後、パチリと瞼を開いた。いよいよか、とにとりが拳を握りしめたとき、少女の目線はにとりの後方一点でピタリと止まった。何事かと振り向くと、そこには、油にまみれた機械類が雑多に積み重なっていた。

 春を撒き散らした少女が去り、周りの植物たちは生き生きに生きた呼吸を始めた。空気もじんわりと暖かくなったような気がして、にとりは思わず腕を捲った。
 ふと、鼻の奥がむず痒くなってにとりは顔を顰(しか)めた。目の端にもちくちくと痒みを覚え、にとりはパチパチと瞬いて泪を注いだ。見渡すと、空はうっすらとした黄色に染まりつつあった。毒物かと思ったにとりは慌ててガスマスクを被り、立ち上がって周囲をいかめしく警戒した。
 ふと気になって放置していた機械類に目を遣ると、鉄板の繋ぎ目から針のように鋭い葉がいくつも生え出している。葉の先端にはどんぐりみたいな粒がびっしりと付いていて、風に揺れる度に黄金色の粉を振り撒いていた。
 にとりは散らかしていた機械たちを綺麗に片付け、地面に滴る油を丁寧に丁寧に拭き取った。

  おわり


『木々と斧』より