藍の先回り
凍えるような風を浴びながら、藍と橙は白銀の山を見上げて互いに白い息を吐いていた。二人が立つ雪道の両脇には針葉樹が迫っている。 「橙。この山の住人に勝負を挑むんだ。訓練の一環だが、事情を知らない相手は本気でかかってくるだろう」 横目で橙を見る。橙は頬を強張らせながらもはっきりと頷いた。 「いいかい。私が呼びに来るまで、決してここへ戻って来てはいけないよ」 藍は橙の正面に回り、屈み込んで橙と目線を合わせた。 「はい。必ず藍様の期待に応えます」 「よし。では行くんだ」 橙は藍の横へ大きく踏み込み、勢いよく山へ飛んで行った。藍は、雪面にくっきりと残った橙の足跡を見下ろした。 「さて」 藍は前方を見遣り、橙の姿が完全に見えなくなっているのを確かめてから、茂みへと飛び込んでいった。 白く染まった斜面を越えると、雪が積もる平地の真中に落ち葉がこんもり盛り上がっていた。落ち葉の一角を、化石を探すような手つきで払ってみる。すると中から金髪の顔が現れた。頭の左に、掌みたいな紅葉を三つ重ねて貼っている。少女は目をぎゅっと瞑った後、ぼんやりと藍を見た。 「もう、こんな寒いときに起こさないでよ」 「寒いから起こしたんだ。ほら、あちらを通るであろう猫と一戦交えてくれないか」 藍は落ち葉の中を弄(まさぐ)り、少女の手首を掴んで引っ張り出そうとする。 「わかったわかった。戦えばいいんでしょ」 少女は泳ぐようにして落ち葉から抜け出し、木々の向こう側へとふらついていった。 藍は後を追い、木の影から少女の方向を窺った。少女は覚束ない足取りで獣道に身を曝け出す。程無くして橙がやって来た。少女はぐったりした様子でパラパラと弾を放っていく。橙は軽い身のこなしで難なくそれを交わし、首元に付けた黄色いリボンの裏から一枚の札を取り出す。藍は小さく頷き、くるりと反転してその場を去った。藍の背後で、弾幕の弾ける音が聞こえた。 冷たくうねる川を逆流していくと、壁のように凍りついた大きな滝が眼前に広がった。わずかな水が氷の上を伝い、滝つぼに落ちてせせらぎへと混じっていく。 ふと、気配を感じて滝の上に目を向ける。崩れ落ちそうな崖の縁に、赤い高下駄を履いた少女がいた。黒光りする刀と丸い盾を持って、あちらこちらを忙しなく窺っている。藍にはまだ気づいていない様子だった。藍は徐(おもむろ)に、袖の先から硬質の札を抜き取った。 「イリュージョン」 そう囁いた次の瞬間、藍は少女の背後に回っていた。右手を構え、無防備な白い背中に狙いを定め、一発の光球を放つ。少女は仰け反った格好で吹っ飛ばされ、雪面に倒れ込んだ。 「誰だ!」 少女はすぐさま起き上がり、剣を構えて腰を落とした。だがその間に、藍はまたしても少女の後方へ移動していた。再び光球を放つ。少女が雪に倒れる。また背後に回り光球を放つ。少女が倒れる。藍は終始無表情のまま、何度かそれを繰り返した。少女の人型がいくつもできあがっていく。 「あのー」 その時、滝の下から甘ったるい声が聞こえてきた。藍は目を見開き、即座に茂みへ身を隠す。 「てて……、何か用?」 「弾幕勝負してもらえますか?」 「いいけど、今日はなんだか風が強いよ?」 遠くに聞こえるやりとりを聞きながら、藍は少女の表情を見た。少女はしきり瞬きを繰り返しながら、既に疲れきった顔で崖を見下ろしている。 合意の掛け声があったのち、少女は空高く舞い上がった。少女は藍にとって見覚えのある弾幕をいくつも避けていくが、その動きは錘(おもり)が圧し掛かったように鈍かった。藍は静かに背を向け、さらに山の奥を目指していった。後方から、弾幕の連続で破裂する音が聞こえた。 木々にまみれた急斜面を登っていくと、漆喰の白い壁が正面に現れた。 「これは拝殿? 神社の横手に出たか」 建物の左手向こうには鳥居があり、そこから建物に向かって石畳がまっすぐ伸びている。そして、道の終着には綺麗に磨かれた木の箱が鎮座していた。その道だけはくっきり視認できるものの、境内の他はどこもかしこも分厚い雪で覆われている。 「はーい」 その時、拝殿の中から澄んだ声が聞こえてきた。藍は斜面に伏せ、葉の間から境内を観察する。少しして、緑髪の少女がシャベルを持って飛び出してきた。少女は熱心に辺りの雪を除けていく。 「参ったな。あの者、橙では相手にならないぞ」 藍は恨めしげな視線を送りつつ、雪が融けそうなほど頭を悩ませた。 あの巫女の弾幕は……、多彩でこれといった弱点が無い。橙の奥の手は……、恐らく通らない。ならば、そうだ、あの者の能力は。 「“奇跡”、これだ」 藍は伏せたまま、音を立てないよう注意深く、斜面をもぞもぞと下りていった。 「どうも。貴方はここの巫女かな?」 藍は鳥居の端をくぐり、雪を集める少女に向かって軽く手を挙げた。 「はあ、まあ、巫女のようなものです。何かご用でしょうか」 「いやなに、うちの橙がこれから大事な戦いを挑むんだが、ここは一つ、橙の戦勝を祈願してくれないだろうか」 「どうして私に?」 「ここの巫女は“奇跡”を売りにしていると聞いた。その力をもってすれば、橙の無事を祈ることなどたやすいだろうと思ったのだ」 「わかりました。ではそこでお待ちください」 少女は怪訝な表情を浮かべていたが、藍の求めに応じて小屋の裏へ行った。そうして戻ってきた少女は、ぺらっぺらの紙が貼り付いた棒を右手に持っていた。 「こちらへ」 藍は吹き曝(さら)しの屋根の下に案内された。少女に促され、土埃の付いた白い板張りに正座する。突き刺すような冷たさが布越しに膝へ伝わる。 「その橙さんというのはどなたですか?」 「化け猫で私の式だ。ちょこちょこ動き回って非常にかわいらしい」 「なるほど。では始めます」 少女は藍の前に背を向けて、ゆっくりと腰を下ろした。すると同時に、辺りの空気が重く静まり返る。少女は先ほどの棒を両手で構え、お経のような調子で何やら唱え始めた。 「掛けまくも畏き守矢神社の大前(おおまえ)に、恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(もう)さく」 藍は膝元の手に力を込め、その様子をじっと見つめる。 「化け猫なる橙の此度(こたび)戦(いくさ)に赴くに、禍事(まがこと)無く勝り、健やけなるちょこちょこかわいらしきを再び主の御目に掛からせ給えと、恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(もう)す」 直後、少女の長髪がふわりと舞い上がる。膝の下から風が巻き起こっているのだろうか。その髪がしなだれると同時に、頭を垂れる。しんとした空気が幾重にも積み重なる。 暫くして、少女は藍に振り返って微笑んでみせた。 「はい。これで橙さんは大丈夫です。私が保証します」 藍は立ち上がって少女に深々と礼を送り、手を振る少女を背に境内を後にした。だがそう見せかけて神社をぐるりと回り込み、境内がよく見渡せる斜面に寝そべり、茂みからの監視を再開した。 少しばかり待っていると、左手にある鳥居の向こうから赤い服の少女が元気よく飛び込んできた。鼻歌混じりに上機嫌で境内を歩く。 「さては橙、バッチリ倒してきたな」 藍は思わず顔を綻ばせる。 「いらっしゃい。参拝の方ですか?」 雪かきの続きをしていた少女が、橙に気づいて振り向く。橙はにんまりとしてみせた。 「あんたを倒して終わらせる!」 言うや否や、橙は青と緑の弾幕をばら撒いて空に翻る。 「私の色ですか?」 対する少女は突然の襲撃に怯む様子も見せず、左右に反復して迫り来る弾を交わし、膝を曲げて飛び上がろうとする。だがそこで少女の動きが止まった。 「ちょっと待って、貴方の名前は?」 「橙!」 橙の声は冬の空気へ徒(いたずら)に響いた。その名を聞いた少女は露骨に渋面を浮かべる。その間にも橙は空中を駆け回り、マスカットみたいな弾を放ち続ける。少女は反撃するそぶりを見せず、酸っぱい口をしながら橙の弾をひたすら避け続けた。 「どうしたの? なんか今日は、みんな私に圧倒されているみたい」 「判った!」 少女は突然笑顔になって、かと思うと勢いよく空へ跳躍した。 「貴方の“奇跡”、頂きます!」 少女は袂から赤紫の札を取り出した。同時に少女の背後で巨大な六芒星が展開される。すると、橙の体から白色の気体が漏れ出し始めた。 「え、なにこれ」 橙は自分の手から湧き出る湯気を見て目を丸くした。渦が広がるようにして散らばった気は、瞬く間に少女へ吸い寄せられていく。 「ああ、いいですね、この全能感に満たされる感じ、堪りません」 少女は両手を一杯に広げて白色の霧を浴びる。橙はただ呆然と少女を見つめるばかりだった。 橙から出た気体がひと通り吸収された後、少女は空中で半身になってぺらっぺらの棒を構えた。 「さて。これで貴方が勝つ可能性は万に一つも無くなりました」 「どうして?」 橙は眉を落として問いかける。 「それは、貴方に掛けられた戦勝祈願を吸い取ったからです」 「どういうこと?」 「あれ、知らないのですか? 貴方のご主人様が私に頼んだんですよ。『橙を勝たせてくれ』って。まさか相手が私だとは思いもしませんでした」 「え」 橙は口をぽかりと開けた。茂みにいる藍は青ざめてその場に固まった。 「それってつまり、藍様に仕組まれていたってこと?」 「はあ、よく判りませんが、そうなのかもしれません」 すると、橙は口を尖らせ、鋭い目つきで叫んだ。 「藍様! 藍様! 近くにいるのですか!」 藍はよほど逃げようかと迷ったが、むくれる橙を放ってはおけないと思い、のこのこと草陰から姿を見せた。 「橙、よくがんばった。私は」 「ひどいです! 私の実力を試したかったのに!」 甲高い喚声を頭上に思いきり浴びせられ、藍は思わず一歩後ずさった。 「違うんだ橙。橙にもしものことがあってはいけないから」 「言い訳は聞きたくありません!」 橙は藍に向かって赤と青に輝く弾を連射した。光弾の束は一本の太い筋を作り、迷いの無い軌道で藍に迫る。 「うわあああ、ごめんよ橙!」 藍はもはや抵抗もせず、その場に突っ立ってありったけの直撃を喰らった。さらさら積もっていた雪が粉のように舞い上がり、藍は空中に放り出されて後方に倒れた。 痛みに薄れる意識の中、雪煙の向こうで少女が橙に近寄っているのを見た。 「勝っちゃいましたね。ご主人様に」 「うん。戦勝のお祈りが残っていたのかも」 おわり 『二匹の仔ザルと母ザル』より