アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

腹ペコ幽々子の恩返し


 ミスティアはほんのり香ばしい匂いを感じながら、緩やかな呼吸で目の前の蒲焼きを扇ぐ。パチパチと炭の弾ける音がする。
 ふと前方を見ると、暗闇の竹林から水色の何者かがぬるぬると近づいていた。屋台に吊るされた雪洞(ぼんぼり)の明かりで、女性の輪郭が次第にはっきりと縁取られる。見覚えのあり過ぎるその顔に、ミスティアは背中一面に鳥肌を立たせた。水色の女性、西行寺幽々子は覚束(おぼつか)ない足取りで屋台の裏へ回り、ミスティアを見てふと立ち止まる。かと思うと突然ミスティアに抱きついてきた。
「ねええ。お腹が空いてしょうがないの。食べていい?」
「ひっ! ダ、ダメです」
 ミスティアは顔面を一杯に引きつらせて幽々子を見た。一回り大きい幽々子が、ミスティアに凭(もた)れかかって口角を緩ませる。
「あ、あああああの、こ、これ、ウナギ、ウナギを食べてください」
 ミスティアは空いた右手で網の上のウナギを必死に指差す。幽々子はぬらりと目線を向け、唾液を啜り、再びミスティアの方を向いた。
「ごめんなさい。お金持っていないの」
「い、いいですいいです! 気にせず食べて! もうほら今夜はしょうがないなあ!」
「本当?」
 ミスティアはもげそうなぐらいに何度も頷く。すると幽々子は漸くミスティアから手を離し、屋台の正面に回って腰かけた。
「ささ、どうぞどうぞ」
 ミスティアはバネで弾かれたかのように蒲焼きを差し出す。
「いただきます」
 手を合わせた幽々子の声は清らかで、菩薩のような表情を浮かべていた。

 本日最後の一枚が幽々子の口に収まった時、ミスティアは屋台の裏で膝を抱え、深く溜め息をついた。
「ごちそうさま。このご恩は必ず返すわ」
 よろめいて立ち上がるミスティアに対し、幽々子は屋台に乗り出してミスティアを覗き込み、つやつやに微笑んた。そうして去っていく背中をミスティアは呆然と見送り、幽々子が完全に消えて暫くしてから、「さ、店じまい」と洩らした。


 竹林の間をわずかに差し込む日光に、ミスティアは目を細めた。四方を若草色に囲まれている中、ミスティアは迷うことなく進み続け、竹の群れを抜けて和風の邸宅へ辿りついた。屋敷を中心に拓けた土地に人妖の気配は無く、ミスティアは風船のような動きで竹の垣根を越えていった。
 格子状の窓から中を覗くと、硝子棚に囲まれた板張りの部屋には誰も見当たらなかった。ミスティアは恐る恐る窓を開け、隙間に体を滑り込ませる。
 屋内は鼻通りの良くなりそうな臭いがうっすらと漂っていた。ミスティアは手近な硝子棚の戸を引き、中に並ぶ茶色の小瓶を物色する。
「何か無いかな。屋台に使えそうな薬」
「貴方は薬と調味料の区別もつかないのかしら」
 不意に浴びせられた言葉に、ミスティアは肩を大きく震わせた。右手に持っていた小瓶をうっかり落としそうになる。弾ける心臓を堪えてぎこちなく振り返ると、赤と青の国旗みたいな服を着た長身の女性が、腕を組んで間近にミスティアを見下ろしていた。
「そうね、気を失った方が怖くないわ。それとも意識を保ったままがお好き?」
 緩慢に顔を寄せる女性に、ミスティアは「何が?」とも訊けず歯を震わせた。女性がミスティアの両肩めがけて、そっと手を伸ばす。
「待ちなさい!」
 その時、部屋の反対側から通りの良い声が聞こえてきた。棚の横から覗き込むと、青空色の着物を纏う幽々子が部屋の入り口で白色の幽霊を侍らせていた。ミスティアは正面の女性に目線を戻す。口をだらしなく開けている。その隙にと、ミスティアは幽々子の下へ駆け寄った。
「助けて!」
「ええ」
 幽々子に促され、ミスティアはその背中に隠れる。
「何の真似かしら」
 氷のような声が部屋に響き渡る。幽々子は背後のミスティアを一瞬見てから、女性に向き直り両手を構えた。
「私は胃袋の味方よ」
 幽々子はじりじりと前方の距離を詰めていく。
「さ、今のうちに逃げて」
 ミスティアは「ありがとう」を幽々子の後ろに置いてから、勢いよく部屋を飛び出した。


 ミスティアは鼻歌混じりに蒲焼きを扇いでいた。屋台の隅には、ミスティアが逃げるときに偶然握りしめていた小瓶が控えめに飾られている。
「こんばんは」
 いきなり後方から息をかけられ、ミスティアは寒気に全身の毛を逆立てた。背後に目線を送る。水色の幽々子が扇子を片手に佇んでいた。
「ねえ」
 ミスティアの肩にひんやりとした感触が伝わる。
「戦ったらお腹空いちゃったの」
 絡め取られそうな声色に、首筋が妙に涼しくなる。ミスティアは、これじゃ際限が無いと思いつつも、仕方なしに幽々子を正面の席へ誘導した。
 丁度良い塩梅に焼けたウナギを平たいコテで掬い上げる。その時、視界の端に茶色の小瓶が映った。ミスティアは幽々子が目を逸らしているのを見計らって、小瓶に手を伸ばし、これ見よがしに中身を蒲焼きにぶちまけた。透明で微かに黄色がかった液体が、ウナギの表面にべっとりと纏わりついた。
「どうぞ召し上がれ」
 溢れそうになる笑みを必死に堪えつつ、素っ気ない風にして皿を差し出す。幽々子は蒲焼きを見ることも無く、あっさりと口の中へ放り込んだ。ミスティアは屋台の下で両手を握り、固唾を呑んで幽々子を見つめた。炭の焼ける音が響く。
「うん。おいしいわ!」
 幽々子は星が落っこちたような笑顔を浮かべ、ミスティアに「これもっともっと」とせがんだ。ミスティアは首を傾げつつ、とりあえず二皿目を幽々子に出してから、小瓶を手に取って表面の付箋を見た。そこには達筆な字で、はっきり“味醂”と書かれていた。

  おわり


『農夫とワシ』より