アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

チルノ霊烏路を笑う


 麓の茂みにぽっかりと開いた大穴へ、チルノは迷いのない動きで飛び込んでいった。円筒状の壁は焦げ茶色の岩肌がむき出しになっていて、落っこちるチルノを暗がりに包んでゆく。
 穴の底は黄色に輝き、巨大な太極図を囲うようにして八卦の紋様が描かれている。その中心に、蘆会(アロエ)色の大きなリボンを頭に付けた黒髪の少女がいた。チルノはその横へ降り立ち、倍近い背丈の彼女を覗き込んだ。少女は俯き、呪文を唱えるかのように唇を小さく動かしている。チルノがさらに顔を寄せようとした時、長身の少女は忙しなく歩き回り始めた。
「炉内の窒素に中性子を照射。生成される三重水素は、えと、毎秒約二千個。三、二、一、照射を止めて重水素を注入。高エネルギー中性子の放出に注意」
 大穴の周縁を何度も往復しつつ、岩壁に埋め込まれた灰色の羽目板を連打する。チルノはその横をぴったりと附いていったが、少女の詠唱を聞いているうちにだんだんと頭が痛くなってきた。首から上が煮詰まってどうしようもなくなったチルノは、つかえたものを吐き出すようにして力一杯に叫んだ。
「やい! いい加減こっち向け!」
 少女は肩を大きく揺らし、ぬるりとチルノを見て目を点にした。二人の間を沈黙が横たわる。
「あ、あれ、何だっけ」
 少女は瞬きながら唇を震わせ、落ち着きのない様子で左右を見回し始めた。同時に、四方から鈍い機械音が響いてくる。チルノは、その音が消防団のサイレンに似ていると思った。
「あああああ! もうわかんないよ!」
 少女は頭を抱え、周囲を無闇に走り回る。空気が風呂のように熱くなってきた。
「へん! 足し算もできないお前がそんな賢いことをするな!」
 チルノは腰に手を当て、まるで勝負に勝ったかのごとく大層自慢げな表情を浮かべた。
 ふと、足元が湿ってきたのに気付いて真下を見る。チルノの黒い革靴から、水色の液体が漏れ出していた。

  おわり


『カモメとトンビ』より