アンコーハウス - 東方伊曽保物語 -

口先だけのお慈悲


 霊夢は凍える風が吹き付ける日にも甲斐甲斐しく腋の下を晒し、柄(え)が黒ずんだ箒を片手に石畳の隙間と格闘していた。時折、頭上に広がる分厚い曇り空を見上げ、白い息を細々と洩らす。
 その時、神社へ続く階段の下から甲高い叫び声が聞こえてきた。かと思うと、青色の妖精が鳥居の真ん中をくぐって霊夢の下へ飛び込んできた。妖精は霊夢のふくらはぎにスカートの上からしがみつき、息も絶え絶えに訴える。
「れ、霊夢、かくまって」
「ちょっとあんた、只でさえ寒いのに冷えるからやめて」
「は、早く」
 霊夢は眉を顰(ひそ)めていたが、妖精は脚から手を離してやたらと顔を近づけてくる。そのひんやりした吐息にとうとう根負けした霊夢は、黙って拝殿を指差した。妖精は光が差したように顔を輝かせ、賽銭箱を飛び越えて中へと入っていった。
 少しして、白い装束を纏う何者かが、轟音を立てながら大車輪のようにやって来た。霊夢の前でピタリと止まったその者は、何本も生えている穂先のような尻尾を命あるかの如くうねらせつつ、鬼の形相で霊夢に問うた。
「霊夢、ドブ色の妖精を見たか」
「はあ?」
「ドブ色の妖精を見たか、と訊いている」
 この妖怪は自分の正面に垂れ下がる青い暖簾をはためかせながら、霊夢に額を寄せる。
「一体何があったのよ」
「あの妖精、『寒さには慣れるのが一番』などとほざいては凍える橙に霰(あられ)を浴びせた。赦さん」
 拳を握りしめ熱く語る妖怪に対し、霊夢は「顔が近いわ」と押し返す。
「まあ、細かい事情は知らないけれど、どちらにしても妖精なんか知らないわ」
 溜め息交じりに答える霊夢だったが、彼女の手はすうっと拝殿を指差した。
「本当か?」
「本当よ」
 口ではそう言いながら、指先は賽銭箱の向こうをつんつんと示す。
「そうか。申し訳ない」
 だが妖怪はその合図に気づかないまま、山の方へ荒々しく飛び去っていった。

「いやあ、あの猫を思ってのことだったんだよ?」
 妖怪が消えて暫くした頃、先の妖精が壁の裏からのこのこと出てきた。
「力を持て余すのもほどほどにしなさい」
「うん」
 妖精は青いスカートの裾を整え、頭の青いリボンを結び直し、地面を蹴って飛び立とうとした。
「待ちなさい」
 鋭く呼び止める霊夢に、妖精は口を尖らせて振り返る。
「あんた、体の芯まで染み渡るほど温かな慈しみを振る舞うこのありがたい巫女へ、何か言うことは無いかしら」
 透き通る瞳で見つめる霊夢に、妖精はさらに眉を吊り上げた。
「あたい、霊夢の様子をくっきりはっきり見ていたんだから。霊夢みたいな霊夢じゃなければいくらでもお礼したよ!」
 妖精は霊夢に近づき両方の頬を思いっきり抓(つね)ってから、「でもちょっとだけありがとう」と言い残し、逃げるようにその場を後にした。

  おわり


『キツネと樵』より