冬のうつほ、厳寒の湖へ飛び込む
うつほはあまりの空腹に地上へ飛び出した。毎晩欠かさずつまみ食いを続けていたために、おやつの支給を止められてしまったのだ。濛々と曇る空が、自らの両肩に圧し掛かっているような錯覚を受ける。遠くの山は大福みたいに白く染まっている。 季節を終えたトンボみたいに寒空を漂っていると、不意に視界が白く濁った。ひたひたとした風がうつほの横顔を撫でる。見下ろすと、何層にも亘(わた)る霧の向こうに藍色の湖が微かに見渡せる。 そのとき、湖の真ん中で緑の何かが動くのを発見した。少し高度を落として観察する。フリルをふんだんにあしらった緑の着物を纏う少女が水面に浮かんでいて、水に濡れた瑠璃色の巻き毛をしなやかな手先でかき上げる。同時に水面に波紋が広がったので目を遣ると、少女の後ろで丸みを帯びた魚の鰭が、歩くような速さで上下運動を繰り返していた。 「魚?」 うつほは再び少女の頭を見た。そうしてだんだん、うつほの口いっぱいに唾液が広がった。次の瞬間、うつほは少女目掛けて急降下した。少女との距離が急激に縮まる。手を伸ばせば旋毛(つむじ)に届くかというほどに迫ったところで、少女は不意に空を見上げた。バチリと目が合う。口を大きく開いていたうつほに少女は目を丸め、うつほに捕まる寸前で水中へもぐった。 「え?」 目標を失ったうつほは、そのまま水中に飛び込んだ。 先の人魚によって岸辺に運ばれたうつほは、縮こまって雑草を噛みながらぶるぶると体を震わせていた。すっかり冷え切った制御棒をもう片方の手で擦りつつ、濁り切った視野でぐるぐると地面を見回す。時折、凍ったような風が湖から吹き、うつほの背中に氷の布団を被せる。 「唇が黒いですよ。貧血みたい」 声の方向に目を遣ると、ぼんやりとした視界ながら、水際にいる人魚が心配そうに振る舞っているのが判った。うつほは顎の揺れを堪(こら)えて人魚に話しかけた。 「ねええ人魚さん。どうすればあたたまる?」 人魚は曇天を見上げた。 「さあ……。春になったら暖かくなるんじゃないですか?」 「ん、そうだよね。じゃ、春まで待とう」 それから二人は他愛のない話に花を咲かせ、夜になるとうつほは地底へ帰っていった。 おわり 『腹の膨れたキツネ』より