正体不明の、けれども妖怪
しんと静まり返っていた南向きの和室に、陶器の鋭い音が鳴り響いた。ぬえの珍妙な翼が、棚に飾っていた壷を落としてしまったのだ。床の間に散らばった白い破片を見下ろして、ぬえは唇をわなわなと震わせた。頬に冷たい風を感じながら、ぬえは周囲をぎこちなく見回す。付近には誰もいない。ぬえは自分の顔を覆うほどの大きな破片を拾い上げ、部屋に備え付けてあった筆で“ごめんなさい”と書きつける。墨汁が滲み“でぬんなさい”となったがぬえは目線を逸らし、破片を元の現場に戻すと、今度は懐から碁石のようなものを一粒取り出した。ぬえはそれを掌に乗せ、一息で口に含み、急ぎ足で外へ飛び出した。 命蓮寺を出たぬえは人里の通りを抜けていった。すれ違う人々は一様にざわめくが、お構いなしに前傾姿勢で走り去る。 人家が疎らになったところで、背の高い少女が前方からやって来た。緑の長髪を風に棚引かせる少女はぬえを見つけると、目を輝かせて快活に指差した。 「あ! 止まりなさいそこの妖怪!」 ぬえは無言で針路を変えようとしたが、その一瞬のうちに少女が接近してきた。ぬえは唇を噛みながら少女の瞳を見つめた。 「何? 貴方には私がどう見えるの?」 「なんかわさわさわさっとしている感じでよく判らないですけど、妖怪でしょう? 私には判ります」 「よく判らないって言ったじゃない」 二言目を発したぬえは、自分がすっかり相手の呼吸に乗せられていることに気づき、はぅっと息を呑んだ。 「さあ。人里から逃げる不審な妖怪さん。異変を起こす前に退治してあげます」 少女がお祓い棒を片手ににじり寄る。ぬえも合わせて一歩ずつ後ずさりするが、三歩目の右足が勢いよく溝に嵌った。灰色の泥が飛び散る。その時、目の前の少女がどこか見覚えのあることに気づいた。ぬえは拳を握り締め、至近距離の少女に身を乗り出した。 「違う違う! 私はあれ、そう、エイリアンなんでしょ?」 ぬえの声が人里の外れに響くと同時に、お祓い棒を振り上げた少女の動きがピタリと止まった。 「あれ? うーん、よく見ると確かにそんな気がします」 「だよねっだよねっ! じゃ、私は急いでいるからこれで」 ぬえが側溝に浸かった足を引っ張り出したところで、少女の口元が不敵に歪んだ。 「まあいいです。エイリアンを退治したい気分になったので」 おわり 『ハクチョウとガチョウ』より