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紅美鈴の転職


 うららかな昼下がり、日課の午睡を嗜んでいた美鈴はふとした拍子に目を見開いた。
 毎日毎日休まず働いているのに、支給されるのは食事と寝床だけ。もしかして、私は不当に扱(こ)き使われているのではないか。
 瞼を小刻みに痙攣させながら、覚りを得た気になった美鈴は思い立ったが早く地面を蹴って青空へ舞い上がった。


 雲の層を乗り越え飛び越え、高空までやって来た。遥か彼方に黄色い太陽が見える。辺りは白い雲の床にうっすらと覆われていて、その先に目を遣ると、雲と空の境界線がはっきりと判る。太陽と反対の方角には、左右に配置された巨大な木の柱がいくつも続き、その奥は靄がかかっていてあまり見通せない。美鈴は雲の切れ端を少し吸い込んでから、煙霧の向こうへ一直線に飛び込んだ。
 白く染まった空気をかき分けかき分け、開け放たれた大門をくぐると、突如として前方の視界が広がった。薄紫色の空に茶色の地面がどこまでも続く。先ほどまでとは一変して、一帯は少し湿った空気に覆われている。冥界の空気。
 聳え立つ中央の高台が目についた美鈴はすぐに飛びつき、途方も無く続く石の階段を駆け上り、漆喰の壁に埋め込まれた木の門を叩いた。暫くすると門が軋みを上げて開き、銀髪で小柄の少女が美鈴の前に現れた。
「ここで働かせてくれませんか?」
 少女は二つ返事で、美鈴を中へ案内した。

 砂利が敷き詰められた庭に辿りつくと、少女は縁側の前で跪(ひざまず)いた。美鈴は何事かとぼんやり眺めていたが、少女が目配せをするので、仕方なく美鈴も膝をついて身を屈めた。
 すると屋内から、川の水に溶けそうな色の着物を纏う女性が、実にゆったりとした足取りでやって来た。おそらくこの邸宅の主(あるじ)だろうと考えていたら、よく見るとその主は、ぼんやり白い玉のような幽霊を何十にも従えている。主の肩や腕、頭などに乗った幽霊たちを視界の端に見て、美鈴の血の気が引いた。
「妖夢、楽にしなさい。隣の貴方も」
 少女が面を上げるのに合わせて、美鈴もそろりと主に顔を向ける。幽霊にやたらと慕われた主は真剣な表情でこちらを見る。妙な威圧感に美鈴は固唾を呑んだ。だが次の瞬間、主は美鈴にパタパタと駆け寄ってきた。
「ねえ、お手伝いに来てくれたんですって? 嬉しいわ」
 主は急に表情を綻ばせたかと思うと、美鈴の両手を取って上下に振った。美鈴は「はあ」などと言いながら照れ笑いを浮かべるばかりだった。

 指示を受け、美鈴は再び冥界の門の前まで戻ってきた。背後に聳える硬質の扉をちらりと見て、「やっぱり私には門が似合うのかな」などと鼻で笑ってみせる。
 暫くすると前方から一人の幽霊がやって来た。道に迷っている様子だったので、さりげなく行き先を教え、靄の先を指差す。動きが滑らかになった幽霊の背中を見送っているうちに、次の幽霊が訪れた。また道案内をする。また幽霊が来る。道案内をする。幽霊が来る。道案内。
 いつの間にか、美鈴の周囲には夥しい数の幽霊が集まっていた。ひっきりなしに応対をつづけるが、それでも幽霊はその数を増していく。このとき美鈴は、主に幽霊がびっしりついていたことを改めて理解した。

 なんとか迷い人を捌き切った頃には、手前の空はすっかり墨色に染まっていて、背後の空は相変わらず中途半端な紫色であった。全身に瓦が圧し掛かったような倦怠感に襲われた美鈴は、冥界の方をちょっぴり見つめた後、柱に向かって「ごめんなさい」と書き残し、ふらふらと夜空の方角へ飛んで行った。


 地上へ戻り木の上で一晩を明かした美鈴は翌日、人里を通り抜けて竹林へ赴いた。竹藪をかき分けながら美鈴はふと、丸一日も門前を空けて紅魔館はどうなのかと不安を抱いた。しかし幾許の思考ののち、まあ大丈夫でしょうと心配事を足元に置いていった。
 いつぞやにメイド長から聞いた記憶を頼りに進んでいると、竹林の中にだだっ広い敷地を発見した。中心には、高貴な方が住まうような古めかしい和風の屋敷が建っている。日差しの乏しさを感じて空を見上げると、竹たちが天蓋のように上空を隠している。
 竹を十字に編んだ簡素な門をくぐり、段々のように敷かれた大きな石を一つずつ踏み、玄関まで辿りつくと引き戸を軽く叩いた。暫く待っていると、ガラガラ木が揺れる音と共に兎耳をつけた背の高い少女が姿を現した。前が開いた黒色の上衣をシャツの上に着用し、首元から赤い縦長の布が垂れ下がっている。
「ここで働かせてくれませんか?」
 決まり文句で相手の出方を窺う。美鈴の思惑とは裏腹に、少女は怪訝な表情を見せる。どうしたものかと思いあぐねたところ、廊下の奥から長方形の帽子を被った銀髪の女性が顔を覗かせた。
「ちょうどいいわ。私の下で勤めてもらえるかしら」
 その言葉に兎耳は即座に振り返り、再び美鈴へ顔を戻すと小刻みに首を振った。目を潤ませて震える姿に美鈴は一種の狂気を感じた。だが、そういえばこの少女はそういう能力だったと合点した美鈴は、勇んで玄関の敷居を跨いだ。

 先ほどの女性らにつれられて、美鈴は焦げ茶色の廊下を進む。銀髪の後姿を見ながら、どうしてこの人の衣服は赤と青の半々に分かれているのだろう、そしてなぜ上下で赤青の配置が逆なのだろう、半身の移植手術でもしたのだろうか、などと考えているうちに、前を行く二人がふと立ち止まった。前方には木のドア。他の部屋は全て襖で覆われているのに、二人の先には取っ手の付いたドアが備えられている。周囲の壁に浮き上がるような角ばった出で立ちに、美鈴は心臓が揺さぶられる錯覚を受けた。銀髪が金属の取っ手を回す。扉が静かに開け放たれると同時に、ツンと涼しげな刺激臭が漂った。鼻の奥がむず痒くなる。「お入りなさい」。美鈴は二人の後を追った。
 入ってすぐ目の前には木製の大きな机があり、雑多な書類や茶色の瓶などが無造作に並べられている。部屋は右側に広く、奥の方には真っ白の寝台が据えられていたり、戸棚が壁に敷き詰められたりしている。
「では、私は何をしましょうか」
「そうね。まずは部屋の片づけからお願いするわ」
 机の正面に腰かけた銀髪が、息を吐きながら美鈴の目の奥を見つめた。

 床に散らばったゴミを拾い、庭の木箱へ突っ込んでゆく。兎耳黒服の少女が心配そうに寄ってくるが、「大丈夫です、こういう仕事は慣れていますから」と断って作業を続ける。
 続いて薬瓶の処理を命じられた。薬瓶であるということを知りようやく、ここが診療所か何かであることを理解した。使用済みの瓶は水の張った桶の中へ、中身が残っているものは付箋に応じて元の棚へ。雑用に慣れた手先を存分に発揮して作業を進める。思いのほか順調に仕事が進むので、美鈴は鼻歌混じりにホイホイと瓶を戻していく。だがその時、床から拾い上げようとした瓶が、指の先からツルリと飛び出した。あ、と息つく暇も無く瓶は木の床に接触して、甲高い音を立てて割れた。底の半分が粉々に砕け、紫色の液体が床の一角に漏れ出す。美鈴の足先から指先までが瞬時に凍りつき、内から来る寒気でガタガタと震え始める。何もできないまま立ち尽くしていると、不意に左の肩をポンと叩かれた。
「割っちゃったの?」
「はい」
「しょうがないわね。あら、その薬品は……、そうだ。ちょっとこっちへ来てもらえるかしら」

 銀髪に促されるまま、美鈴は純白の寝台に寝かされた。
「なんてことはないわ。ただ、これを飲むだけ」
 銀髪は懐から指先ほどの小瓶を取り出した。中の液体が妖しく揺れる。
「お師匠様!」
 そこへ兎耳の少女が駆け寄り、銀髪の腕を掴んだ。
「この方はお手伝いに来てくれただけなんですよ! それを、そんな、あんまりです」
「何を勘違いしているのかしら。ほら、貴方も飲みなさい」
 銀髪は小瓶の蓋を指先で開けて、ぐいと少女に差し出す。少女は眉間に皺を寄せて大層渋そうな表情を見せたが、少しの沈黙ののち、小瓶を受け取ると、一気にそれを呷(あお)った。直後、少女は銀髪に倒れ掛かった。それを銀髪は慣れた手つきで別の寝台に寝かせ、美鈴のところへ戻るともう一つの小瓶を取り出した。
「さあ。飲まないと大変なことになるわよ」
 小瓶を持つ手が真っ直ぐに差し出される。美鈴は、そんなの飲めるわけないとはっきり断ろうとした。けれども、先の後ろめたさにその気持ちも押し潰されてしまう。美鈴は静かに小瓶を貰い、目を閉じて、瓶の縁にそっと唇を寄せた。


 目が覚めると天井の木目が目に映った。続いて顔を横に向けると、窓の外はすっかり日が暮れて何も見えなくなっていた。
「気が付いたかしら」
 ぼんやりと床に目線を落としていると、銀髪が美鈴の顔を覗き込んだ。その瞬間、美鈴は蘇る記憶にはっと驚き、無我夢中で両手を開いたり閉じたりした。続いて足先も動かしてみる。どうやら体に異変はないようだ。
「ごめんなさいね、少々強引で。急を要したから」
「どういうことですか」
「貴方が零した薬だけど、揮発して体内に入ると強い毒性を示すものだったのよ。つまり劇薬。
 それで体調を崩さないように、毒性を中和する薬を貴方たちに飲んでもらったのよ。副作用が強いから、飲むとすぐに意識を失ってしまったでしょう」
 ひと通り聞いた美鈴は肩の力を落とし、敷布に身体を深々と預けた。
「今日は手伝ってくれて助かったわ。約束の報酬と、これはおまけ」
 銀髪は美鈴の枕元に、巾着袋と薬瓶を添えた。美鈴は心の底から湧き出る安堵に襲われ、銀髪に背を向けさめざめと涙を流した。


 翌朝、美鈴は銀髪と兎耳に礼を述べ、屋敷を後にした。その足はまっすぐに紅魔館を目指していた。竹林を出て一本道を進みながら、頭の中で昨日の記憶を辿った。
 診療所は、一見とてもよい勤め先のように思える。けれどもあの兎耳の慌て様はなんだろう。棚には毒薬が平然と並べられていた。あそこにいたら自分が死んだ後でさえ、骨の髄まで扱き使われるかもしれない。
「さて、咲夜さんにどれだけ怒られるかな」
 美鈴は口の端に笑みを浮かべ、後頭部に両手を組み、澄み渡る空の下をのんびりと歩いていった。

  おわり


『ロバと飼主』より