幽谷響子の転機
命蓮寺にやってきた幽谷響子は、毎日毎日門前で惰眠を貪ってばかりいた。昼間、寺の者が修行をしている間は眠りこけ、食事の時間になると計ったように起き上がり席に加わるありさまだった。 ある日の夕食後、白蓮が響子を薄明かりの板の間へ呼び出した。夜の床は突き刺すように冷えていて、正座を強いられた響子はしきりに足先を動かしていた。 横に据えた蝋燭に揺らめく白蓮が、数歩ほど離れた響子の顔を覗き込むようにした。 「今の貴方、目に輝きが無いわ。どうしたのかしら」 「だって、山で旅人たちに返事をしても、私のことに気づいてくれない。山彦がいることを理解してくれない。 存在意義を失った妖怪なんて、消えてしまった方がまし」 「そうかしら」 伏し目がちの響子に、白蓮が語気を強めた。糸で引かれたように面を上げた響子に対し、白蓮は頬の力を緩めた。 「確かに、今の時代に山彦を続けるのは難しいかもしれない。けれども、それだけが貴方の定めなのかしら。 山で大声を出してあげる以外にも、貴方の生きがいはあるはずだわ」 白蓮はおもむろに立ち上がり、目の前まで近づくとそっと顔を寄せ、静かに響子の手を取った。 「新たな道を、一緒に見つけていきましょう」 あたたかな風のように語りかける白蓮に、響子はすっかり釘付けになっていた。 * 肌寒い冬の朝、うっすらと柔らかな日差しを浴びて目が覚めた寅丸は外の空気を吸おうと起き上がった。部屋を出て門をくぐろうとしたとき、いつもの栗色の垂れ耳が熱心に石畳を掃き回っていた。 「おはよう」 「おはよーございます」 響子はしきりに手を息で温めながら、それでも生き生きと掃除を続けている。寅丸は響子を横目に門を抜け、寺から少し離れたところで呟いた。 「聖は本当にお上手ですね」 おわり 『鍛冶屋と彼のイヌ』より