これで大丈夫でしょう
「お空、灼熱地獄跡の点検は任せたわ」 吹き抜けの正面玄関からバサバサと飛び出すうつほの背中を見ながら、さとりはぐるぐると考えを巡らせていた。 火力調節はこれで大丈夫でしょう。あとは……。 「お燐」 さとりの小さな声が、黒色のタイルを伝って廊下まで響き渡る。少し遅れて、小さな黒猫が柱の影から飛び出した。 「怨霊の世話に行ってもらえるかしら」 黒猫は明朗に頷き、機敏な動きで外へと駆けていった。 うん。怨霊の管理もこれで大丈夫でしょう。よし。 さとりはうつほたちの針路に背を向け、廊下の奥へ向かった。最近新調した赤い靴が床に付くたびに、硬質の足音が波紋のように広がっていった。 自室で身なりを整えたさとりは、玄関の外へ出ると両手を前に組み、静かに佇んだ。地底の天井は上底が見えないほど高く、墨をまんべんなく塗りたくったかのように黒く染まっている。 暫くして、かたそうな藍色の上衣を着た長身の少女が動物たちに連れられてやってきた。茶色と黒ばかりの地底で、まるで光を浴びているかのように目立つ。少女は円筒を平らにしたような帽子を緑髪に被っていて、その前面に付いた金色の表象がさとりを一点に見つめる。 「お待ちしておりました、閻魔様」 さとりは長身の閻魔に向かって深々とお辞儀を送り、しなやかな身のこなしで扉を開け、来客を先導した。 地霊殿の入り口付近に設けられた一室にて、さとりと閻魔は互いに向き合うようにして長椅子に腰を下ろした。中央には背の低い透明のテーブルがあり、白色の花瓶に活けられた葡萄色のクリスマスローズがひっそりと添えられている。周囲には年季の入った洋風の棚や、ガラス細工を飾ったガラスケースなどが並べられている。 雑談もそこそこに、閻魔が本題を切り出した。 「それで、怨霊の具合はどうなのですか」 「ええ。宜しい塩梅に統制がとれていますわ」 この閻魔は今日、怨霊の様子を見るためにわざわざ地底の奥深くまでやってきた。そして今、怨霊たちは完全に地霊殿の制御下に置かれている。瑕一つない玉のような成果、さとりは内心浮き足立つ気持ちを抑えるのに必死であった。 「では、少し見学させてもらってもよいでしょうか」 「ぜひお願いします」 「じゃあ、その間に部屋の掃除をしておくぜ」 「ええ、任せたわ」 さとりは立ち上がろうと腰を上げ、よくよく考えると聞き慣れない声に立ち止まり、声の元に素早く振り向いた。 「げ」 焦げ茶色の棚のすぐ横で、黒い魔法使いが三角帽子を手で押さえていた。 「な……」 さとりは息を大きく吸い込み、腹の底から声を吐き出した。 「あんた誰よ!」 そのままの勢いで飛びかかろうとしたが、それよりも早く魔法使いは部屋を飛び出した。さとりは赤い絨毯へ盛大に顔をぶつけたが、痛みを庇う間も無く侵入者の後を追った。 魔法使いが屋敷を飛び出す寸前のところで、滑り込んださとりが正面玄関を塞いだ。魔法使いは素早く踵を返し、廊下の大きな窓ガラスを割って外へ飛び出す。さとりも舞い散るガラス片をすり抜け、必死に後を付けながら、ついさっき魔法使いから“想起”した星形弾をひっきりなしにばら撒く。白色の星が地底の暗がりを飾る。 「さとり様ー!」 屋敷から幾許か離れたところで、後方から頼りない叫び声が聞こえてきた。 「大変です! 怨霊が、怨霊が!」 その言葉にさとりは一瞬で青ざめた。それから眉間に皺を寄せて唇を噛み、ついには追走を放棄して地霊殿へ舞い戻った。 地霊殿の裏庭では灰色の小さな怨霊たちが、竜巻に晒されたかのごとくあちこちに舞い上がっていた。その傍らでは、いつの間にか部屋を出ていた閻魔が、悔悟棒を片手に呆然と中空を見つめていた。 「いやあの、違うんですこれは、その、事故です!」 能面の閻魔を前に、さとりは身振り手振りで必死に言い訳をこねくり回す。その渦中、さとりは風がやたらと熱いことに気が付いた。この風は裏庭の奥から吹いている。さとりは目を見開き、足をもつれさせながら再び飛び上がった。 灼熱地獄跡は煌々と燃え滾(たぎ)る巨大な炎に包まれていた。強く吹き付ける熱風にさとりは左手で顔を、右手で第三の目を覆う。風の勢いが少し弱まったのを見計らって、もう一度様子を確かめる。地獄の中心ではうつほが独楽(こま)のように回りながら、赤く輝く馬鹿でかい火球をあちこちに撒き散らしていた。 「お空! 何やっているのよ!」 さとりは炎の向こうへ精一杯の叫びを送った。 「さとり様! 『核反応制御不能』です!」 「見ればわかるわよ!」 「点検の最中に変な星がお腹に直撃して! それで均衡を崩して!」 うつほの弁明がさとりの頭に響く。数瞬ののち、原因を把握したさとりは眉間を押さえた。 「まあなんにせよ、最悪の事態を想定しておくべきだったな」 ふと横を見ると、先の魔法使いが知らないうちに肩を並べていた。地獄の炎で顔の陰影がやけにはっきりと縁取られている。 「この、このお!」 さとりは三つの目で睨みつけてから、魔法使いの胸にうずくまり、力無く肩を叩いた。 おわり 『海辺を歩いている旅人』より