小傘、地底の旅
多々良小傘は息を切らしながら寒空の下を駆け抜けた。背後には緑髪の巫女が迫っている。走り続けていい加減めまいを起こしそうになったところ、木々の奥に大きな洞穴を見つけた。小傘はなりふり構わず、ぱっくりと開いた黒い口に飛び込んだ。 暗がりの中は外にも増してひんやり冷たい。小傘は、氷のように冷え切った岩を手で辿りながら一寸先、一寸先と歩を進める。かなり進んだと思ったところで背後を振り返ると、まだ入り口がはっきりと視認できた。懸案の巫女はどこにも見当たらなかった。 さらに奥深くへ進んでいくと、その先は急な斜面になっていた。小傘は頼みの唐傘を広げてぶら下がり、ゆっくりと降下し始めた。 「おやおやいけないねえ、地上の妖怪が勝手に入ってきちゃ」 小傘が完全に宙ぶらりんになった時、岩肌の影から金髪の少女がぬっと顔を出した。 「え? ここは何?」 「そうか、迷子なんだ。だったら……、体に刻み込んであげようか!」 少女はその場で大きく両手を広げた。するとその瞬間、小傘は息苦しくなって激しく咳き込んだ。小傘の咳に合わせて唐傘の舌が激しく揺れる。 「太陽の下で暮らす妖怪さん、私の毒でゆっくりゆっくり蝕んであげるから」 「ひっ」 毒気のせいか恐怖のせいか、小傘は青ざめてがたがたと震え始めた。小傘が握る唐傘もぶるぶると揺れる。その時、木の棒が折れるような乾いた音が小さく響いた。振動で唐傘の骨組みが割れたのだ。傘布は一斉に逆立ち、浮力を失い、小傘は果てしない暗闇へ真っ逆さまに落下した。 小傘は地面に激突する寸前で霊力を展開し、なんとか全身の強打を避けられた。続いて、小傘は替えの骨組みを取り出すと急いで唐傘を修復した。そうして元気な姿に戻った唐傘の横顔を、小傘は笑みを浮かべて撫でてあげた。それから、先の見えないゴツゴツした一本道を見据え、再び歩き始めた。 真っ赤な橋を超えると一面に街並みが広がっていた。昼とも夜とも思えないようなぼんやりした明るさに包まれている。大抵の建物が平屋建てでところどころ朽ちているが、行き交う人妖は皆安穏としている。ただし、すれ違う誰もが小傘をじろじろと眺めた。小傘は、やはり地上の妖怪だから警戒されているのだろうと合点しつつ、気を緩めまいと唐傘の柄を強く握った。 「あん? “上”のひょろっちい妖怪よ、何か用か?」 突如、小傘は右肩をずっしりと叩かれた。慌てて振り向くと、そこには小傘の倍もあろう背丈の者が訝しげな表情を浮かべていた。小傘は気後れしそうになったが、心臓をがっちりと固めて向かい合った。 「ちょっとだけ間借りしようと思って」 「残念だったな。弱輩に貸す屋根は無いね」 立派な赤い一本角を生やした目の前の鬼は、軽蔑の目で小傘を見た。小傘は今にも逃げ出したい気持ちでいっぱいになりそうだったが、同時に別の感情がふつふつと湧き上がり始めた。小傘は、この際だからその勢いに乗ってしまおうと、大きく右足を踏み出した。 「やい! なんだよさっきから弱い弱いって! 私だって一人前の妖怪さ!」 「ほう」 すると、先ほどまで険しい表情だった相手は顔を綻ばせ、口の端を歪めた。 「郷に入れば郷に従え。だったら見せてもらおうか、この土地の流儀でな!」 言い終えるや否や鬼は小傘に両手をかざし、無数の白い弾幕を放ち始めた。小傘は慌てて飛び退き、唐傘をぶんぶん振り回して迫りくる弾をかわしていく。 「ほらほらどうした。そんなんじゃ傷一つ付けられないね!」 次第に弾幕が濃密になっていき、小傘はいよいよ進退窮まった。 「もう終わりか? これだから地上の奴は」 調子の良い声で語る鬼の目には若干の失望が含まれていた。それを見た途端、小傘の奥底から真っ赤な気合がメラメラと燃え上がった。小傘は口を一文字に結び、唐傘を構えて勢いよく地面を蹴った。 「りゃあ!」 唐傘の先端から光球が連続して飛び出した。それらは一直線に虹を描き、白い弾幕を突き破って向こうの鬼へ襲い掛かる。対する鬼も冷静に、弾幕を前方に集中させて迎え撃った。虹色の筋と白色の壁がせめぎ合う。小傘は腹の底から叫び声を上げ、全身の力を唐傘の一点に集中させた。小傘の弾は徐々に一点を窪ませて、押し込んで、ついに小さな穴をこじ開けた。そこからなだれ込む虹色の弾が鬼に迫る。だが寸前のところで、鬼は軽やかな足取りでその弾を避けた。 「あ……あ」 精根尽き果てた小傘はその場に突っ伏し、自らを襲うであろう弾幕を予期して歯を食いしばった。だが、覚悟していた衝撃はいつまでたってもやってこない。前方を見上げると、濛々と煙る砂埃の中で、かの鬼はしきりに左の頬を擦っていた。 「あいたたた。油断していたら掠っちゃったよ」 鬼は顔の横を伝う血を指で掬い取り、ぱくりと口の中に含んだ。それから、倒れている小傘を見るとすたすたと近寄った。 「立ちな。やるじゃないか」 鬼はあっけらかんとそう言ってのけ、高らかに笑い声をあげた。よく見ると、鬼の右手には大きな盃が抱えられていて、そこから若干の液体が滴っていた。 「いいのかい? せっかく住処を安堵してやろうと思ったのに」 もと来た地上への道を辿ろうとする小傘に向かって、鬼が名残惜しげに声を掛けた。 「うん。今なら、地上の敵にも立ち向かえそうな気がするから」 「そうかい。じゃ、逞しくがんばりなよ。 それと、あんたのおかげで、ほんのちょっとだけ地上の妖怪を見直したよ」 鬼は親指と人差し指で“ちょびっと”の仕草をして、茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた。 「私こそありがとう。じゃ、またね!」 小傘は後ろ髪をひかれる思いに苛まれながらも、それを振り払うように暗闇の小道を駆けた。 地底の出口へ近づくにつれて、周囲は次第に明るさを取り戻し始めた。遠くに見え始めたまばゆい一点は、瞬く間に膨れ上がって小傘を待ち構えた。小傘は満ち足りた思いを顔いっぱいに浮かべ、外の世界へ軽やかに飛び込んだ。 「見つけた!」 突如、横から無数の爆音が響き、小傘は身構える間もなく全身に五芒星を喰らった。冷えて固くなった土に激突した小傘は鈍いうめき声をあげ、薄れゆく視界の中、目の前の雑草を見つめた。 「ああ、私は、巫女退治のプロじゃないんだよね」 おわり 『片目のシカ』より